ハリハリのブログ

人に見せても良いと判断した思想感情を記録しておくための保管庫

ミュージカル「パレード」感想 ~劇場で私たちは何を観たのか~

あの体験から三週間が経った。三週間“も”なのか“しか”なのかはっきりとしないが、とにかく私が東京芸術劇場でミュージカル「パレード」を観てから三週間。
私が感想を書きあぐねている間に名古屋・大阪公演も無事終わったらしく、おととい6/15に大千秋楽を迎えたとのこと。

(なんかホリプロの公演情報が削除されていたので、代わりに情報サイトのを貼ります。消すの早すぎだろ)

enterstage.jp

 

 

ネットでは「観てから一週間、悶々としてブログが書けなかった」だの「ショックを受けすぎて悪夢を見た」だの、およそミュージカルを観たとは思えない感想がそこかしこにある本作。
私も例外ではなく、「終わったらカフェでスイーツ食ーべよ☆」とか考えていたのに、劇場を出るときには固形物が喉を通らないテンションになっていた。物販でパンフレットとサントラを買う気力もなかったくらいだ(パンフを買いそこねたのは今でも後悔している)

 (↓観劇直後のツイート抜粋)

 

 

 

(以下、作品のネタバレあり。)

 

 

 

  

「パレード」は、1913年にアメリカのアトランタで実際に起きた少女暴行殺人と冤罪事件を題材にとっている。ユダヤ人実業家のレオ・フランクが無実の罪に落とされる過程と、妻とともにその濡れ衣を晴らそうと奮闘するのがストーリーの中心だ。

(↓画像は荒いが、死体の写真があるので注意)
レオ・フランク事件 - Wikipedia

 

 

ミュージカル「パレード」が素晴らしいのは、レオ・フランクを単なる冤罪被害者とは扱わず、アトランタの人々もレオを恐れ盲目的に攻撃するただの愚かな民衆とはしなかったところだ。

 

たとえば、プロローグ。幕が開くと大木の下にひとり青年が佇んでいる。メインストーリーの約50年前、南北戦争に出生していく男の独唱から、この物語は始まる。時は流れ、南軍戦没者記念のパレードで、人々が青年と同じ歌を歌う。左足を失い傷痍兵となったかつての青年とアトランタ市民が、かつてののどかで純朴な暮らしを懐かしみ、「我々はまだ負けていない。故郷のためなら再び行進曲を歌う」と叫ぶ。南部の人々が持つ故郷への強い愛着と、その裏にある北部への憎しみをいやおうなしに感じるシーンだ。

その日、パレードに浮かれる人々の脇を、北部で生まれ育ったユダヤ人、レオ・フランクがすり抜けていく。「ここの人たちには馴染めない。動物園みたいだ。アトランタを故郷とは思えない、北部に帰りたい。南部育ちの妻もユダヤ人らしくない……」と心中でつぶやきながら。

 

この時点で、南部はただの加害者ではなく、レオもただの被害者ではない。互いが互いを差別しあってしまっていることが、序盤でこれでもかと描写されている。

 

トーリーが進むと、ただの悪徳検事かと思われたドーシー検事も、アトランタの人心の安定を考えて証拠の捏造不適切な手法をとっていることが判明するし、裁判官も「早すぎる変化は混乱を招く(から、ユダヤ人のスケープゴートは妥当)」と言うし、黒人奴隷使用人たちは「殺されたのが黒人だったらこんなに騒がれなかったろうにな」と自虐をはじめる。

みんな、事情があるのだ。事情があるとわかってしまうと、神の視点に居る観客すらどの登場人物にも「お前が悪い」と糾弾できなくなってしまう。それなのに目の前で事態はどんどん酷くなっていき、何もできないことに神経がすり減っていく。

 

神の視点にいてなによりも恐ろしいのは、レオに絞首刑が言い渡される原因をつくった人たちは大半が愚かさと軽率さと、そして善意で行動しているのがわかることだった。
ソースの怪しい情報をまき散らして金を稼ぐマスコミ、暴走した復讐心から嘘の証言をする少年、又聞きの又聞きを自分の体験として話す少女、それを頭からうのみにして憎しみを募らせる市民たち……。

 

 

まって、これめっちゃ見たことある。Twitterとかニュースとかで何回も見たことある。
まって、これは昔の外国の話のはずなのに。
これ、私たちのいる現実の話だっけ?
いままさに、私が暮らしているこの国の話だっけ???

 

 

……私が観劇後、どうしてあんなに鬱なツイートを繰り返したかお判りいただけただろうか。
文字で読んでも十分正気が削れるが、より質の悪いことにこれはミュージカルだった。
音楽と照明とダンス、そして劇場という閉鎖空間は、人間の論理を飛び越えてダイレクトに感情へのアクセスを可能にする。論理レベルでも十分辛いのに、感情にまで恐怖や悲しみや混乱を直打ちされたら多少気がおかしくなっても仕方がないだろう。

森新太郎氏が演出した作品を観るのはこれがはじめてだし、演出技術には私は明るくないが、容赦なく観客を没入させて負の感情をVR体験させるのが非常にうまいと理解した。死ぬかと、いや、死にたいと思わされた。
感覚としてはホラー映画に近い。自宅者の恐怖映画を観たあと、静かな自宅にひとりでいるのはなんとなく気が引けるだろう。一晩友だちの家に泊めてもらおうか、とか考えるはずだ。だが残念なことにパレードの恐怖の対象は社会だった。一生身をゆだねなければならないものが、想像以上に信用ならないという感覚を強く植え付けられたのだ。生きていくことに本気で苦痛を感じた。

 

パレードに限らず、トニー賞受賞作は社会問題をテーマに扱う作品が多い。アカデミー賞と同様、楽しいだけの作品は賞を取りづらいシステムになっているオペラ座の怪人とかは頭が軽い方の作品だと思う)
しかし、ミュージカルは映画以上に「娯楽」要素の期待値が高い。たいていの作品は、楽しくキラキラした衣の中に重いテーマを織り込んで訴える手法をとる。どんな傑作でも興行が伸びないとノミネートもされないからだ。だからふつうは、決して、最初から最後まで重油を飲ませるような真似はしない。その点でパレードは完全に異形だ。初演のスポンサーはマジの篤志家か、さもなくば暗い話が大好きだったに違いない。変態め。ありがとう。

 

クソ重い傑作と、腕のある演出家と、ガチの俳優陣ががっぷり四つに組んだ結果、2017年5-6月の東京芸術劇場(そして大阪と名古屋)には濃縮された地獄が生み出された。楽しいひとときを期待して足を踏み入れた観客は、三時間後、目のハイライトを失ってふらふらと出ていく。
しかし外の世界は、先ほどまでステージでカリカチュアされていた地獄そのもの。気が紛れようがない。Twitterとか間違っても見られない。頭の中にはステージの情景が何度もリピートする。
空想にも、現実にも、逃げられない……。

 

これがおそらくパレードという作品と、森新太郎氏の演出の狙いだったのだろうと思う。人間は痛い目に会えば学ぶ。逃げ場がないならなおさらだ。
たとえ深く考える強さがなかったとしても、似たような事態に直面したときにひっかかる棘の役割くらいは果たしてくれる。
いつもなら反射でリツイートしていた指が、止まるかもしれない。無責任に恐怖をあおる報道に、眉をひそめて目をそらせるかもしれない。自分の心にあった醜い思いこみに気づくかもしれない。

 

私がパレードの精神腹パンをくらってから三週間、いまのところの結論はこうだ。
軽率な善意が暴走して悲惨な結果を招かないようにするには、ひとりひとりが……すなわちまず自分が、ごく地味な自制と自省を続ける以外にない。他人と協力したい、自分が間違っていないと言ってほしいと思った瞬間に、暴走のレールは敷かれはじめる。(もちろん、いずれは暴走を制御しながら周りと協力できるようになるのがベストだ。だが、いきなりやる必要はない。危ない)
地味な努力の報酬は、自分が死ぬときに「まあ、やれるだけやったと思う……たぶん」みたいなささやかすぎる自己満足があるだけだ。それでも、善意で誰かを轢き殺すよりはだいぶマシだと、私は思う。他人が石を投げるのを止められないからといって、自分も石を投げていいということにはならないのだ。

 

 

 

 

余談

『パレードを観た人たちが、異口同音に絶賛しながら(劇中のアトランタ市民と同じように)大きな渦に巻き込まれて行ってるように見えたのが一番怖かった』
という趣旨のツイートをみかけた。

まさに!と膝を打った。上で述べたように、観劇中私たちが主に感じていたのは恐怖と混乱であり、それは当時のアトランタ市民と同じ感情といえる。怯えて迷う人間はどのような行動に出るかというと、仲間を見つけ、団結しようとする。可能ならば敵を見つけて排除しようとするだろう。
さすがにパレードを観た直後に攻撃行動をとれるほど愚かな人は見かけなかったが、あからさまなアンチがいたりしたら……石を投げ始めたかもしれないね。

 

 

高田馬場ジョージが可愛いって話と、彼の無邪気な価値基準について

KING OF PRISM -PRIDE the HERO-行ってきたよ!
まだ通常と応援一回ずつしか観てないけど、最高です。あ、キンブレの色順だけ調整していくとより楽しめるかと。青→水色→黄色がスムーズに移行できるとはかどるよ。

 

前回の記事でさんざん喚いたとおり私はヒロ推しなので、うん、もうね、思った以上の形でこう、ね(語彙力喪失)

 


ヒロに関する記事はあと一週間くらい我慢するから(確かめたいことがたくさんあるので)このブログ読んでる人はみんな観に行こうね!!
行こうね!!!!!

 

 

 

 

さて、ここからは高田馬場ジョージを中心としたキンプリ・キンプラのネタバレがあります。
まだ見てない人は観てから来てね!!
またね!!!

 

 

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高田馬場ジョージへの第一印象は、「なんだコイツ」だった。

媚びまくりだし、三下ムーブしかしないし、ショーの出だしの上目遣いがキモイし、空気読まねえしプライドはねえし、コイツ必要か?というのが本音。

 

そう、高田馬場ジョージはキンプラの本筋には不要と言っていい。
法月仁のアレなところを引き立て、シュワルツローズが審査員を買収している描写のために配置されているキャラであり、わざわざネームドにするほどの役割をもっていない。別にこれだけなら、ツルギでもココロでもよかっただろう。

素直な見方をするなら、ジョージは(作れるかどうか未定な)次回作へのシナリオフックとしての要素が強い。ヒロの父親云々やユキノジョウの家同様だ。

 

にも拘わらず、高田馬場ジョージは大変魅力的なプリズムスタァだ。面白いことに、その魅力は公開数日たってから大勢に認知されはじめる類のものだった。
昨夜(6/13)から今朝にかけてTLで急速にジョージについてのツイートが同時多発的に行われた。かくいう私もその一人で、昨晩布団に入ってからとつぜん「あれ、ジョージってかわいくね?」と思いつき1時間ほど入眠ができなかった。おかげでいま、若干ふらつく頭でこのエントリを書いている。

 

いまTLを覗くと、ジョージに目覚めたエリートたちが百人百様の高田馬場ジョージを妄想している様が観測できる。「わかる」から「ちょっと何言ってるかわかりませんね……」まで入り乱れて大変カオスだ。黎明はやはり楽しい。
とくに枕田馬場ジョージ(枕営業してるジョージ)は笑った。わかる。わかるけど実はやってない世界線も魅力的だと思える大変良いミームだ。

 

 

私がジョージを最高にかわいいと感じるのは、価値基準が狂人レベルにシンプルだ、という点だ。

キンプリ・キンプラはプリズムスタァ(及び彼らを取り巻く大人)たちが「俺にとってのプリズムショーとは」を全身全霊の命がけで表現し、競い合い、分かち合う物語だ。
一条シンにとってのプリズムショーは「初めて僕がプリズムショーを観たときのように、キラキラして皆を笑顔にできるもの」だし、速水ヒロにとっては「存在意義かつコウジの才能の表現」のちに「みんなを幸せにできるもの」、仁科カヅキにとっては「FREEDOM」。

では高田馬場ジョージにとってプリズムショーは何なのかというと、「点数・数字で高く評価されること」なのではないかと私は推測している。
買収された審判により不当に高い得点がついても普通に喜んでいるのをはじめとして、ヒロという新たなキングの体感を目撃してなお、シンに「俺の方が点数が上!」とドヤ顔できるのもそうだし、法月仁に鞭で顔をひっぱたかれても全力で笑顔をつくるのもそうだ(ツヴァイテ落ち=評価の下落は本当に嫌なのだと思う)。

アレクがスタジアムを破壊し、タイガが互角の防衛戦を魅せ、カヅキがステージを創造するというショーを超えたミラクルを間近で見ても、「お前ら失格ー!まだ俺が暫定1位ーーーーーー!!!!!」と喜べる神経は並の三下ではない。

描写されていないため確定していないから好き勝手言わせてもらうと、ジョージは「ははーっ!」って言ってない可能性すらある。

常人であれば、結果よりもその過程が大事だという価値観を人生のどっかで育んでくるはずなのに、ジョージにはプロセスを尊ぶという考えがまるっきりないとしか思えない。

 

狂人である。メンタルの構造が人とはかなり違うかたちをしている。

裏でどんな陰謀が進行していても、それが自分の得点に結びつくかぎり(そして敵の得点を減らす限り)悪びれなくごくごく無邪気に「勝てばよかろうなのだジョイ☆」って思ってそうなのだ。俺の名前の横に表示された数字がすべて!!というあまりにシンプルな価値観の持ち主。それが高田馬場ジョージだ。

 

 

 

と、ここまでが昨夜お布団の中で考えたこと。
明けて今朝Twitterをながめていたら「高田馬場ジョージはゴーストシンガー付きの、口パクアイドルである」という情報が飛び込んできた。
口パク自体は公開前から表に出ていた情報らしいが、私は初耳だった。まじかよ、というかんじだ。

杉田智和さん「お手数かけます。」劇場版『キンプリ』“自分で歌わない口パクアイドル”高田馬場ジョージのゴーストシンガーは小林竜之さん! - にじめん

 

いよいよ狂人みが増してきたぞ高田馬場ジョージ。いや、審判買収が平気ならゴーストシンガーくらい別にどうってことないのか……。

まあ、巷で言われているような、「歌がとてもうまい友人(事情があってショーはできない)の歌を広めるために口パクで頑張っている」みたいな殊勝な背景はジョージにはないと私は信じている。仮にそんな知り合いがいるとしても、同情ではなくたんに「俺よりもコイツの歌の方がカラット稼げるジョイ☆」みたいな損得だけでゴーストになってもらったに違いない。(個人の感想です)

 

いずれにせよ、法月仁がジョージをルヰに次ぐスタァとして扱っているのは、この「高得点」に対する欲求と悪びれなさが評価されているのではと思える。記憶ではなく記録に残るショーができるのは、ジョージのようなタイプだ。

皮肉なのは、いまTLが「ジョイかわいいよジョイ」みたいになっているのが表すとおり、彼のシンプルクズさかげんに癒しを感じるファンは、現実にも、そしてキンプリ世界にも一定数いるということだ。
けっこう記憶にも残っているし、これからも高田馬場ジョージはファンを増やし続けて、なんだかんだ大プリズムスタァになってしまいそうだと思う。

 

 ジョージかわいいよジョージ。帽子ふにふにしたい。

もうすぐキンプリ新作(PRIDE the HERO)公開だから速水ヒロの魅力を語る

速水ヒロは私がキンプリで最推しプリズムスタァだ。アイドルとして、Over the Rainbow(オバレ)の一員として、コウジの親友活最初のファンとしていろいろと危なっかしくも魅力的な彼の生きざまに惚れ込んでいる。
今回はそんな速水ヒロについてお話ししよう。
※ちなみに2番目は十王院カズオカケルだ。チャラいふりしてめっちゃいい奴だし死ぬほど不器用そうなところが可愛い。


本題へ入る前に、お手すきの方は「速水ヒロ」で画像検索をしてみてほしい。さわやかイケメンの画像に混じってとんでもないツラが表示されているはずだ。

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やばいツラの速水ヒロはすべてプリティーリズムレインボーライブ(スピンオフ元)当時の様子だ。ヤンホモの名を欲しいままにして、プリリズRLの知名度アップに貢献した。
ちなみにキンプリにもやばい顔は一瞬出てきますが、回想シーンだけなのでご安心ください。

 

 

「pride」について

速水ヒロについて考えるには、まずprideという楽曲について話す必要がある。
prideは速水ヒロのデビュー曲だが、もともとはヒロとコウジのデュオ(Hiro&Koji)のデビュー曲としてつくられたものだった。作詞作曲はコウジ。しかしエーデルローズ(コウジとヒロが所属する事務所)主宰の法月仁は、ヒロが作ったことにした方が箔がつくとして、名義を偽ることを要求。ヒロは受け入れたが、コウジはデビューを放棄してエーデルローズを去った*1

 


さて、prideは矜持・誇り・傲慢などを意味する単語だ。
すなわちコウジが矜持をかけて作ったprideは、ヒロとコウジの誇りあるデビュー曲になるはずだったが、作曲者の名義やデビューの権利とともに傲慢にもヒロがコウジから奪い取った作品である……という構図になっている。
そんなprideをひっさげて華々しくデビューしたヒロがモノローグで言い放ったのが「この曲を一番うまく歌えるのは……俺だ!!」である。見てくれこの死ぬほど悪い顔を(0:50あたり)。

 

 

 

ヒロにとってprideは矜持そのものであり、彼の傲慢さの表れであり、コウジから誇りを奪ったという枷でもある(奪った件については和解がすんでおり、公式でデュオバージョンも発表されているが)。
ヒロにとってprideを一番うまく歌うのは誇りであると同時に、コウジに対する義務でもあるのだ。

 

ここでキンプリを観たことがある方は、エンディング曲「ドラマチックLOVE」の後に流れた次回予告を思い出してほしい。
「prideが、使えない!?」という愕然としたセリフの後、2度キーの上がったprideを歌うルヰのユニセックスな甘い歌声が流れ、「この曲を一番うまく歌えるのは……僕だよ」というセリフがかぶさる。
説明不要。ルヰがヒロからprideを奪ったのだ。コウジとヒロの間で行われた愛憎劇の再現である。
キンプリ初見でルヰverのprideが流れ始めたとき、プリリズRLを観ていない私ですら「これはヤバイ……!」と鳥肌が立ったのを覚えている(私がミュージカル勢だから深読みしたのもある。誰かの持ち歌を他人が歌うのは異常事態に他ならない)。あれこそがキンプリに本格的に沼った瞬間だったかもしれない。少なくとも、あの次回予告がなければプリリズRLを全編見ようとは思わなかっただろう。

親友から奪ったプライドを敵に奪われたヒロはどうするのか……それがキングオブプリズムPRIDE the HEROの重要なテーマだろう。
おそらくカギは、ヒロがコウジとまだ親友だったころに吐露した本心「勝者ではなく勇者になりたい」が握っている。私が知るかぎり、この台詞はカヅキを通してコウジがヒロに説教をするために用いられた(FREEDOM)くらいで、プリリズRL、キンプリ前編を通してまだ回収されていない。今こそがそのときだ。


……と、ここまでがキンプリのみでわかる速水ヒロの魅力だ。以下では、プリリズRLで発見した彼の魅力についてお話ししよう。

 

プリリズRLを通して見つけた魅力

1.アイドルとしての完璧さ

プリリズRL6話のワンシーン。
綾瀬なる(RLの主人公)が工事を探しているうちにヒロファンの真っただ中へ迷い込んでしまう。自分のファンであると勘違いしたヒロはにこやかに応対し、なるがコウジを探していると知ってもあざやかに「彼女のために、架け橋を!」とファンをさばき、なるをコウジの方へ送り出してやった。


このシーン、ヒロのアイドルしぐさが完璧かつ自然で、「ああ、こいつはプロなんだな」と私はヒロに惚れ直した。(まあ、なるが乱入する前はファンサしながらコウジをちらちら見て挑発するし、コウジがなるに曲を作ったと聞いたら即会話に割って入ったりしてたけど)


プリリズRL全編を通して、速水ヒロは仕事中に私情をほぼ表に出さない。素のヒロはかなり精神がゆれやすく、わりとあっさりヤンホモ化し、詰めの甘い陰謀を企て、かと思えば後輩の面倒をよく見たりダンスバトルでためらいなくカヅキを助けたりと、ぐちゃぐちゃなところが大変人間くさい青年だ。
それに対してアイドルとしてのキャラ性はいかなる時でも一貫している。prideの真の作曲者を明かし、謝罪と引退の発表、そして母親への呼びかけをしたときですら、アイドルの仮面は全く崩れていなかった。インタビューなどでも、速水ヒロはみんなのもの、絶対アイドル愛・N・Gの姿勢をいまだに貫いている。


……うん、心配だよね。何が心配って、素の自分よりもアイドルしてる人格の方がきちんと御せているように見えちゃうのがとても危なっかしいよね。
最高です。推せます。

 

 

2.アパートから出ないこと

速水ヒロは人気アイドルにはふさわしからぬボロアパートに住んでいる。そこはかつて母親と二人で暮らしていた部屋であり、母が自分に会いたくなった時にすぐ訪ねてこられるようにわざわざ借りている。そのため、外出時も鍵をかけない。
(再認識したけど、こいつ執着してる相手にかけるコストがマジで天井知らずだな)


ヒロがここまでする母親は、貧乏ながら暖かい生活を共にしたやさしい女性だった……わけではない。息子にぼろぼろの服を着せてパンの耳を夕飯として与え、自分は男と夜遊びをするタイプのネグレクト親だ。ヒロがエーデルローズにスカウトされたときも、厄介払いがでいるとばかりに二つ返事で売り渡している(何らかの事情があった可能性はあるが、きちんと育てる経済的・精神的能力に欠けていたことは疑いない)。
いちおうプリリズ本編最終話付近で、母親はヒロと離れたことを悔やんでおり、テレビを通じたの呼びかけを聞いてヒロに会いに来てくれたという描写はある。……が、それならなぜ2年後(キンプリ時点)もヒロはボロアパートに住んでいるんだ?


あのアパートに住んでいるのは母親を待つためであって、目的が達せられた以上さっさとエーデルローズの寮に住むなり、もっとまともなマンションに引っ越すなりしたほうがいい。トップアイドルが住むには危険すぎる。コウジに飯作ってもらうにも不便だろあそこ、コンロ一口だし。


アパートから出ないという事実は、速水ヒロのなかで母親への複雑な感情が完全には決着していないという証左に思えてならないのだ。
私はPRIDE the HEROをとおしてヒロがアパートを出る決意をしてくれることを切に切に願っている。信じているぞ菱田監督!エイベックス!(エイベックスは関係ない)

 

※↓アパートから出てほしすぎて思わず書いたヒロべる小説

www.pixiv.net

 

 

 


以上が私の最推しプリズムスタァ、速水ヒロの魅力です。
間違いなく彼がガンガン活躍するであろうKING OF PRISM -PRIDE the HERO-の公開は今週末6/10(土)。
みんなヒロを応援してくれよな!!

 

kinpri.com

 

*1:

キンプリの回想シーンでのこのエピソードは、時系列がはなれたシーンをうまく組み合わせることで法月のキャラ付けも強化するという凄技を披露している。テレビ放送では、「大事なのは格ぅ↑」はHiro&Koji解散のときではなく、プリリズRL本編時間の別シーンで行われた

キンプリの思い出

速水ヒロモチーフのiPhoneケースが届いた。上品な黄色の薔薇(ヒロのトレードマーク)が全体にプリントされていて、オタグッズながら普段使いしやすい。さすがのSuperGroupiesだ。内側はデニム風の布で作られており、オバレを結成して以降の肩の力が抜けたヒロを思わせる。

 

 

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これをもって、一年ほど使い込んでいたおそ松さんスマホケースはいったんお役御免となる。二期が始まったらまた使い始めるかもしれないけど。(この松ケースもめっちゃ可愛くないですか?)

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キンプリという単語は聞いたことがある人も多いだろう。2015年末から2016年の初め頃、わけのわからない流行り方をしたアレだ。

 

 

 

togetter.com

私もノーマークからキンプリ沼に落ちたひとりだ。裸体の男五人がギリシャ風の会談に座っている前売り券のチケットがTwitterのTLを流れていって失笑したのを覚えている。

しかしあんまりにも意味不明なレポが上がり続けるので、1月末についに観に行ってしまった。思い返せばマッドマックスFRも完全に同じ流れで劇場に足を運んだ気がする。我ながらちょろい。

 

「いきなり応援上演はないだろ(まあ、二回目があるとも思えないけどね)」そんな甘い見通しで、私は通常上演のチケット1,300円を購入し、劇場のドアをくぐった。

 

 

半笑い。

呆然。

爆笑。

大爆笑。

呼吸困難。

ひとときの安らぎ。

ヒロ様……。

興奮。

混乱。

悪いと思いつつ失笑。

とつぜんの涙。

キンプリはいいぞ。

 

初見時の私の心境はこんなかんじで変遷していった。不安定すぎだろ。

たとえが適切かはわからないが、テロに巻き込まれてもこんなに混乱しないんじゃないかってくらい、何が起きているのか認識できない70分だった。通常上映にしたのを心から後悔したのはよく覚えている。笑いこらえるのが厳しすぎて本当に死ぬかと思ったぞ……!

 

最期から二つ目の「とつぜんの涙」について少し話そう。

一条シン君がOver the Sunshine!をステージで歌い始めたとき、私の心境はぶっちゃけ「いったい何が始まるんです?」というかんじだった。
だってさ、TVシリーズ時からいたオバレの三人についてはダイジェストがあったとはいえ、ほぼ予習なしで15人超のキャラをぶつけられてしかも中心グループはいきなり解散して悲しいって言われても……なんというか、わからないんだよ!!とくに私はアイドル業界とかにハマったことがないから本当にわからないんだ!

そんなわけで、いまいちシン君が何をしようとしているのかがステージが始まってもわからず、ヒロとカヅキがステージに再登場してもわからず、私は「ヒロ様のお目々は綺麗だなあ」と思いながらスクリーンをながめていた。

なのに、シン君が「プリズムラーーーーップ!」と叫んでステージから飛び降り、客席間を走り抜けていくのに合わせてファンたちのサイリウムが絨毯のように点灯していくのをみたら、こう、鳥肌が立って勝手に目は見開かれ、胸が締め付けられるのを感じた。なにか美しいことが起きているという直感があった。

畳みかけるように「未成年の主張」が始まり、次々に切り替わるプリズムスタァらしき知らない女の子たちのステージ映像をバックに、シン君から
「皆さんは覚えていますか?はじめてプリズムショーを観たときのことを!」
と語りかけられて……いきなり、目から涙がこぼれ落ちた(今でも思い出すとちょっと泣きそうになる)。

びっくりした。先ほども言った通り、私がプリズムショーを観るのはその日がはじめてだ。
けれど私は、自分がはじめてミュージカルを観たときのことを思い出していた。私がこれまで二十数年大好きでいつづけたエンターテイメントとの出会い、そのときの感激を、ダイレクトに追体験させられた。泣かないほうがおかしい。
懐かしさと愛おしさで、頭がおかしくなりそうだった。

いまでも、どうしてあんなふうになったのかわからない。だが、ネットでの感想を観る限り私だけの現象というわけでもなさそうだ。

(どこかブログにほぼ同体験をした方の感想をみたのだが、探し出せない……!)

 

なんかわからん理由でボロ泣きさせられ、それはそれとしてラストの「グローリアス・シュワルツ!」×3で最後まで笑わされ、エンディング曲のドラマチックLOVEに浸って劇場をでた私は……。
とりあえず2日後の応援上映のチケットを抑え、アマゾンでキンブレと黄色い薔薇の造花をポチった。


その後、ひとりで応援上映3回(うち1回は4DX)、友人と通常上映1回、友人と応援上映1回をキメた。さらに一度目の応援上映のあと、スピンオフ元であるプリリズRLでヒロが出ている回を全部見て、挙句「ヒロを理解するには蓮城寺べる(主人公のライバル)を理解する必要がある」という結論に達して結局51話全部観た。最終的にヒロべる小説を書くに至った。狂乱の冬だった。 

「薔薇を慕いて【ヒロべる】」/「ハリハリ@ピカボ3出ます」の小説 [pixiv]

 

 

 

以上が私とキンプリの思い出だ。
あの日、通常上映で一人でキンプリを観に行った私を心から称えたい。プリズムショーはなんて素晴らしいんだ。

 

さて、来る6月10日(土)から、キンプリの最新作が上映開始となる。

 

細部タイトルは「PRIDE the HERO」。つまり……

ヒロ様回である!!


近いうちに、私の最推し速水ヒロの魅力について語るエントリをあげる予定だ。速水ヒロはいいぞ。

魔女を好む男~実写版「美女と野獣」 ガストン考

実写版美女と野獣では、キャラクター造形もアニメ版から様々な改変が加わった。
野獣は教養の高い王子に。モーリスは発明家から芸術家に。ル・フウはひょうきんながら冷静さのある男に。
ベルは全体的に「ぅゎっょぃ」というかんじに。


本作のヴィラン、ガストンも例外ではない。

 

ガストンの変更点はたくさんあったが、一番大きなところは「女の好み」だったと思う。


アニメ版ではガストンがベルを口説く理由は彼女が村一番の美人だから、でそれ以上の理由はない。要するに基準は顔で、中身を見ないことが彼の罪だった。 

 

では、実写版ガストンはどのような女に惹かれるのか。そのヒントは彼が女を口説くことをハンティングに例えていることから類推できる。
ベルにふられて不貞腐れるガストンにル・フウが「ほかにも女の子はいるじゃない」というと、ガストンは次のように答える。

Gaston: A great hunter doesn't waste his time with rabbits.

ガストン:腕のいいハンターはウサギを追いかけたりしないんだ

(引用元:http://www.imdb.com/title/tt2771200/quotes 訳はハリハリ)

 

ここでガストンがウサギに例えているのは村の三人娘である。
お洒落で女らしい振る舞いができる彼女たちは、おそらく村内でかなりランクの高い女子だ(着飾れる=実家に金がある、なので結婚相手としての価値も高い)。それをガストンはつまらない獲物呼ばわりしている。

さて、ハンティングの楽しさとは何だろう。強く賢く粘り強い、挑みがいのある獲物を追いつめて仕留める、そのプロセスではないだろうか。ガストンは難しそうな相手を追いかけて落とすことを楽しみたいのであって、向こうから「抱いて♡」と寄ってくる女はお呼びじゃないのである。

ゆえに村内でもっとも難攻不落な女、ベルはガストンのお眼鏡にかなってしまった。

 

 

ガストンが好む女のパターンは作中でもう一つ示されている。
それは、「未亡人」だ。
モーリスにキレたガストンがル・フウになだめられるシーンで、次のようなやり取りがある。

LeFou: [tries to stops him] Gaston! Stop it. Breathe, think of happy thoughts, go back to the war, bloods, explosions, countless widows.
Gaston: Widows?

ル・フウ: (ガストンをなだめようと)ガストン!落ち着いて。深呼吸して、楽しいこと考えよう。戦争にまた行くとか、血しぶき、爆発、たくさんの未亡人

ガストン:未亡人?
(引用元:http://www.imdb.com/title/tt2771200/quotes 訳はハリハリ)

未亡人もまた、追いかけがいのある獲物になりやすい存在だ。なくした夫を愛していればいるほど難易度は上がる。そこを半ば無理やり口説き落とすのが面白かったのではないかというのは、深読みのしすぎだろうか。

それにしても、ガストンの「未亡人?」の言い方がめっちゃ嬉しそうで気持ち悪いんだ……。邪悪な理由で未亡人が好きなんだなというのがありありとわかる表情。ルーク・エヴァンズみたいなイケメンがああいう顔をしているとまじで怖い。

 

ベルと未亡人、ガストンが好む女にはもう一つ特徴がある。社会的立場が非常に弱いということだ。未亡人は言うまでもないし、ベルも村では新参者で、父親がいなくなれば完全に後ろ盾をなくしてしまう(ガストンが言い放ったとおりに)。
そんな彼女たちがガストンの妻になったらどうなるか。家に閉じ込められ、ノーということは決して許されないまま、ガストンの所有物として一生を終えるのは想像にかたくない(女を閉じ込めようとする男という点で、野獣とガストンは鏡合わせなのだ。ジャン=コクトー版の映画ではよりわかりやすく描かれているが)。
これが三人娘のように実家が安定しているとガストンもあからさまな虐待は控えざるを得ないが、庇護者のいない女にその心配は無用だ。
手ごわかった獲物も、仕留められてしまえば物言わぬ剥製になり下がる。暖炉の上に飾られて自慢の種になる運命だ。
そういえばガストンは終盤、野獣の首を剥製にすると言っていた。生きた剥製のベルと野獣の剥製を両方飾ろうとは、なかなかいい趣味をしている。

 

少し話はそれるが、実写版での大きな変更点に追加キャラクター「アガット」の存在がある。彼女は未亡人で、物乞いをしながら村のはずれで暮らしている。そう、未亡人だ。そしてその正体は、野獣たちと城に呪いをかけた魔女だった。
つまり実写版においては未亡人=アガット=魔女の図式が間接的に成り立つ。

ヒロインであるベルにも目を向けてみよう。彼女は賢く、読書家であり、村中から変わり者あつかいされていて、村の有力な男(校長やガストン)に従わない。
……深読みを承知で言うが、中世の魔女狩りの対象にそこそこ合致する(未亡人はど真ん中だ)。実写版では洗濯機まで発明して村を軽く混乱させたのでますます魔女っぽい。ベル≒魔女という図式も成り立ちそうだ。

 

言いたいことはお分かりいただけるだろうか。
ガストンの好む女は活きのいい、素敵な剥製になってくれそうな獲物であると同時に、魔女の素質をもつ女性でもあるのだ。

そんなガストンの最期が魔女が呪いをかけた城の崩落によるものだったというのは、なかなか趣深いように思える。

 

 

 

余談

吹き替え版では「たくさんの未亡人」が「たくさんの女の子」というセリフになっている。ぜんっぜん意味が変わっちまうじゃねえか!と私は劇場でひそかにキレていた。
未亡人という単語が差別的であり、「寡婦」では聞き取れないというあたりが理由かと推測するが、キャラクター性をゆがめてまでポリコレを守る必要はどこに、と頭を抱える。ポジティブな意味で使っていたならともかく、侮蔑的なニュアンスで未亡人って言ってたんだからむしろそのまま使うべきでは……。

女性と怒りについて~実写版美女と野獣を観て

アニメ版のときからフェミニズム路線だった美女と野獣は、実写版になってそのフェミニズム観を2017年流にアップデートしてきている。

 

 

なかでも私は♪Bell(reprise)でベルが「 Madam Gaston,his little wife? UUUUGH!(#゚Д゚)」と怒りをあらわにしたことにとても驚いた。
(動画00:20あたり)

 

 

映画を未見の方のためにこの曲の直前のシーンについて説明する。
ベルは村の人気者であるガストンからプロポーズを受けたが容赦なく断った。するとガストンは、「父親や夫に守ってもらえない女の行く末は物乞いだぞ。そんなふうにならないように、村で浮いているお前を俺が嫁にもらってやる」という趣旨の、侮辱的なセリフ(たぶん本人はそんなつもりはない)でベルを口説き落とそうとした。
そういう経緯があってからの、UUUUGH!(#゚Д゚)である。そりゃ怒るわ、どんだけ上から目線だよ。

 

アニメ版およびミュージカル版での同シーンは呆れや嫌悪がどちらかというと前面にでていたが、実写ベルは完全に怒っている(まあアニメ版も桶蹴ってるからイラついてはいたんだろうけど)。物を壊したり誰かを怒鳴ったりはせず、せいぜい鶏のエサを乱暴に撒いて丘に駆け出すくらいの温厚なキレ方だが、UUUUGH!はヒロインとは思えぬ汚い低音で怒りのほどがうかがえる。あの叫びにこめられた感情は「っざけんなクソが、死ね!」あたりではないだろうか。
映画館で聴いたときの率直な感想言っていい?「ディズニーじゃなかったら中指立ててたな」

 

 ディズニーは今回はっきりと「失礼なことを言われたら女の子でもキレていい」と表現してきたととらえられる。怒りをあらわにするヒロインはこれまでにもいたが、義憤でないかぎりはちょっとした不機嫌くらいのもので、個人的なことでキレるのは珍しい。とても新鮮だった。

 

 

 

このシーンが琴線にひっかかったのは、私の個人的な体験とオーバーラップしたせいもある。

数年前に彼氏(現夫)と同棲をはじめたころ、友人を数人招いたことがあった。お土産に持ってきていただいたのはピース売りのケーキ数種。案の定、誰が最初に選ぶのかでお見合い状態になり、無駄な膠着状態が好きではない私はこう口火を切った。「じゃあ”家主特権”でマスカットのやつもらいまーす!」
すると友人の一人が、心底不思議そうに首をかしげてつぶやいた。
「……家主?」と。
どう好意的に解釈しても、「家主は彼氏の方でハリハリさんは違うよね?」という意味にしかとれなかった。

 

失礼な話だ。しかし、ショックだったのは失礼なことを言われたせいではない。
それが失礼なことで、腹を立てていいのだと即座に判断ができなかったのが何よりも私を打ちのめした。


我が家では生活費を収入按分で折半しているが、そこそこ収入に差のあった当時は彼氏が家賃をすべて持っていた。そのせいで、一瞬だが私の心に疑念がわいてしまった。
「あれ、私って家主を名乗っちゃダメなのかな……?」
それで、怒りそこねてしまった。腹が立ったのを理性で押さえたのならそれは褒められるべきことだが、怒ってもいいかを見極められなかったのはただの未熟だ。私が私自身を守りそこねただけだった。

 

私以外は誰も覚えていないだろうこの件は、私の中でひそかに尾を引いた。
自尊心は防具だ。きちんと装備していないと不意打ちの侮辱や偏見をフルダメージで食らい、防具をつけられるような体力がもどるのに時間がかかる。
今年になって新居へ引っ越してからも、私はこの家の所有者であると最近まで確信ができなかった。購入代金の支払いは夫がしているから、無意識のうちに『家主だと思ってはいけない』という気がしていた。
あまりにも変にモヤモヤしたので記憶を掘り起こしてみたら、上記の事件を思い出したというわけだ。

 

思い出して3日後に美女と野獣を観に行ったものだから、ちゃんと怒ることができるベルはとても輝いて見えた。男も女も、怒るべき時に怒れないのは不健全だと心から思う。

 

 

余談1

惚気です。

夫に家主事件のことを事実部分だけ(友人がつぶやいたところまで)話してみたところ、「え、ハリハリも家主だよ。二人の力で生活してるんだし」と即座に回答されてすごくほっとした。
さらに「いまはたまたま俺の方が収入があるだけで、病気したりしたらハリハリに頼りきりになるかもしれないしさ。どっちが、って話じゃないよ」という微妙に悲観的かつ合理的な考えを話してくれた。ぶっちゃけちょっと惚れ直した。

 

 

余談2

ミュージカル版の美女と野獣を観てると、ちょいちょい流れる「Home」のインストにそわそわするよね。

 

 

管理運用できないものは捨てる~ハリハリ流整理術

新居での暮らしもだいぶ落ち着いて、いよいよ私室の収納をきちんとしたくなってきた。

これまではとりあえずリビングとキッチンを使いやすくするのにいっぱいいっぱいだったんだよ……。まだ可愛い食器棚は手に入ってないので折を見て買いたい。ちょっといいグラスとかを半分インテリアみたいに見せ収納したいんだ。

 

 

おそらく私は女性かつオタクであるにしては、所有物が少ない方だと思う。買い物はそれなりにするのだが、同じくらいの量を思い切りよく捨てるからだ。

私は物を捨てるのが好きだ。自由になれる気がする。

 

せっかくなので、私なりの断捨離法を書いてみようと思う。

 

手順1.持っているものを手に取る

部屋の隅から隅まで、あるものをすべて手に取る。

このタイミングで持ち物をかんたんにメモしておくと、終わったときに自分がどれほど物を所有しているか一目瞭然になる。めまいがすること請け合いだ。

(今回の引っ越しにあたり私もやってみたが、200品くらいあった。ちなみに書籍等はひとまとまりなので、おそらく本気で一品一品数えたら300品くらいはあると思う)

 

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(↑書き出した所有物リストの一部)

 

手順2.捨てるかどうかを決める

捨てるべきものはざっくり言うと、「使っていないもの」と「使いたくないもの」だ。

 

(1).使っていないもの

某片付けコンサルタントのように「ときめく?」と自分に問いかける必要はないが、そのかわり「いつ使う(着る)?」と問いかけよう。ある意味トキメキよりも残酷な問いかけだが、必要なことだ。

極端な話、季節ものや冠婚葬祭用品のように使用タイミングがはっきりしているものを除いて、普段使いしていない物品はすべて捨ててしまってもあまり問題はない。「いつか」使うものはゴミとみなす。

考えてみてほしい。使わないものは実質存在していないのと同じだ。モノは所有しているだけでは価値を引き出せない。スペースを食い、部屋を雑然とさせ、必要なもののありかをわからなくさせ、衛生面すら危なくさせる。ゴミよりも始末が悪い。

使わないものは、捨てよう。いくら高かったものでも。もらい物であっても。どうしても無理なら人にあげよう。特に服は寄付団体が結構あるぞ。

 

ただし、何事にも例外はある。

私の感覚としては、以下の場合は必ずしも捨てなくていいと思う。

  • 入手してから一年以内のもの。まだ価値を自分が理解できていない可能性がそこそこ見込めるため
  • 思い出の品。ただしガチなものに限る。チケットの半券とか写真とかはアルバムに収めたりして見返しやすい(=使える)状態にしよう。
  • 書籍・CD・DVD。省スペースかつ、本棚などに並べれば管理もしやすいので他のものよりも取っておくリスクは低め。でも五年くらい読み返してないやつは希少本以外捨ててもいいんじゃないかな……図書館が近くにあるかにもよるけど。
  • 飾り物。別に住居を殺風景にする必要はない。ただし、家主や来客の心を和ませるという機能が果たせていないならやっぱり使えていないので捨てたほうがいい。

 

(2)使いたくないもの

オリジナリティがなくて申し訳ないが、やっぱり「ときめかない」ものは某コンサルタントの言う通り手放した方がいい。

「使いたくない」ものは使えるものでも捨てよう。

まだ着られそうでも、自分的にもうしっくりこない服とかは捨てたほうが精神衛生に良い。

個人的な体験だが、「使いたいかどうか」で捨てる癖をつけると自分の中の好悪にかなり鋭敏になって、結果的に要らないものを買う率が減る。機能は満たしているけれど好きじゃないもの(結局使わなくなる)を最初から買わなくなるのだ。

 

 

 

以上の手順1、2を部屋にあるものすべてに実行したら、捨てる工程は終了。

捨てるのが終われば、自分が何を持っているかの把握と、なぜ片付かないかの理解もだいたい済んでいるはずだ。なんか妙に取り出しにくいエリアがあるとか、化粧品が三か所くらいにちらばってるとか、ジャケットだけ10枚くらいあるとか。

あとは片付かない理由を解消するだけだ。一つ一つの問題に対する対処法はググればいくらでも出てくるから、好きに整理をつければいいと思う。

 

使わないモノのない生活はいいぞ。

 

 

余談

このような考え方でいくと、実はkindleのような電子書籍はあまり私の好みではない。スペースの限界がなく、読み返すかどうかの判断を要さずにだらだらと所有し続けられてしまうのはどうにも収まりが悪い感じだ。まあ、ライブラリをろくに整理していないせいもあるんだけど。今度ちゃんと↓あたりを参考に整理してみようと思う。

mercury-c.hateblo.jp

 

まったく同じ理由で、職場のファイルサーバの中身とかも嫌いです。自分で勝手に整理できないから一番嫌いかも。