ハリハリのブログ

人に見せても良いと判断した思想感情を記録しておくための保管庫

意識高いと言われるのが怖かった ~ヨガツイートに関する葛藤~

どーも、朝活が楽しくなりすぎた結果かるい過労(+季節の変わり目による体への負担)でダウンしましたハリハリです。


それでもなんだかんだ朝ヨガ朝活は続いています。
午前中のパフォーマンスが上がる(副次的に過労になりやすいので注意)のと、細々した雑事をまとめて片づけられて達成感が味わえるのはやっぱり良い。
最近30分の朝活にしてみたんですが、私にとってはちょっと長いみたいですね。20分が集中して区切れる時間のようです。

 

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さて、このエントリでヨガに関する記事をあげるのは3記事目か4記事目だと思います。
書くからには読んでほしいという気持ちがあるのでTwitterに通知を入れるじゃないですか。そのたびになんかチリッとする不快感を感じていたんですよね。
なんだべな~と考えて、やっと正体がつかめました。

 

「意識高いwww」って思われるのが怖い。

 

私のTwitterアカウントはアイコンとプロフで一目瞭然のオタクアカであり、つぶやいている内容もだいたいそんなかんじです。リアルで知っていて相互フォローしている友人もごく少数の例外を除いてみんなオタクです。ハリハリがオタクがオタク語りをするためのアカウントです。ミュージカルを観た直後が死ぬほどうるさいミュオタのアカウントです。
わりとフェミニズム関連とかにも言及しちゃうときがある程度に、あんまりウケを気にせずつぶやいています。

 

それなのに、なぜかヨガのことを話すときにものすごく抵抗感があったんです。
「意識高い発言ウザい」って、友人たちに思われるんじゃないかと怖かったから。冷めた視線を送られることを無意識に想像して、知らないうちに緊張していました。


……で、ここから「マジョリティ集団から排除されてきたオタクコミュニティがもつ排他性」みたいな話をしてもいいのですが、私は基本的に自分の身一つでどうこうできない話をするのは好きではありません。
私を「意識高いwww」と笑う人や、そう思わせる空気みたいなものを殴れば被害者ぶれるかもしれないし気は晴れるでしょうがそれって根本的な解決にはなりませんよね、なのです。
そもそも実際にクソリプなどの実害があったわけでもないので、現状はただ私が怖がっているだけ。


じゃあなぜ怖いのか。
他人の目が怖い?それならとっくの昔にオタクやめてるだろって話です。私はほぼ物心ついたときにミュオタになってしまい方向転換をせずに今日まで生きてきたオタクです。いろいろと葛藤はありましたが、自分の感性と知性を裏切るとろくなことになんねえと思い知ったので開き直ってオタクをやっています。
ハリハリは自分の感性と知性を信じるという方針で生きている。だからフェミ系の話もメインアカウントでできる。それなのになぜ、ヨガの話には抵抗感があるのか。
ヨガが好きだ、楽しいという感覚が本当に自分のものであるという確信がないから、という仮説はどうでしょう。「意識が高いw」状態なのではないかと自分で自分を疑っているから怖いのではないか。
逆に言えば、自分への疑いが晴れればこの不快感は晴れると考えていいでしょう。フォロワーや読者がどう思うかは向こうの勝手です(ドライモンスター)。


ではハリハリの言動のどのあたりが意識高い系と類似するのかを見ていくと、これは明白。この2か月という短期間でヨガ関連の記事を何本も上げていること。

朝ヨガってやつをはじめました。
ねじってねじってお腹をへらす
ヨガは成長を求めないのかもしれない

毎日更新のブログならともかく、週一以下ベースのブログとしては明確に多いです。Twitterにも同様に「ヨガ行ってきた」旨のツイートをしており、意識高い系の承認欲求やマウンティング行動を想起させます。


しかし、それは実情と合っているのか?
ハリハリがヨガについて語るのはアピールでありマウンティングである、とするとやはり違和感が否めません。
なぜならヨガに言及しているのがこのブログでありオタクTwitterアカウントだからです。アイコンが瀬戸健太郎だからです。


これがもしもFacebookで「ヨガ行ってきました!」だったり、丁寧な暮らしを指向している風なブログでのアピールだったのなら意識高いマウンティングである傍証になったでしょう。しかしオタクコミュニティにおいてヨガしてますアピールはどちらかというと悪手です。地位向上が目的だったならむしろ隠すか、別のプラットフォームでやるべき話です。こんな風にわざわざ考えるまでもなく明らかなこと。
むしろ自分のカーストを下げるかもしれないとわかっていて、ハリハリはヨガについてのエントリを書きTwitterに投稿した。自分のオタク語り用のプラットフォームで。なぜか。

なぜなら。


ハリハリはヨガ沼にはまっているから。
ヨガがハリハリの旬ジャンルだから。

 

意識が高くなったんじゃなく、意識高いアピールをしてるんでもなく「ジャンル:ヨガ」にハマっただけだった。これが真相。出そろっている状況と一切矛盾しない結論はこれだけです。
観てきたミュージカルについて言葉を尽くして語るのと同じテンションで、ヨガについて自分の思うところを語っていたわけです。沼ったらとりあえず放送日(レッスン直後)はうるさくなるだろ。そういうことだよ。
アカウントを分けるなんてことはしたくない。ミュージカルも黒バスも松もユーリも雑多に語るオタクアカウントでヨガについて語っちゃいけない道理はありません。アカ分け面倒だし、思考の流れが切れるのもったいないじゃないですか。

……よかった。私は私だった。

つまるところ私が@harimarinアカウントですでにミュージカル感想と腐妄想と通常感想と日常ツイを全部ぶちこんでいる以上、そこにヨガがジャンルとして新たに加わることは軸のぶれにはあたらない。もちろんマウンティングなんかじゃないしカースト向上のためのアピールでもない。
「意識高いw」と揶揄される謂れはまったくないですね。なんか言われたら笑顔で中指を立て、「人の趣味に文句つけんな」と申し上げることにいたしましょう。

上でも言いましたが、私は私の感性と知性を信じることにしています。きっちり理論が立ったので、もうこの件についてはよっぽどの反証が出てこないかぎり迷いません。無罪です。ヨガはいいぞ。

 

 


余談

このエントリではカースト向上のためのアピールやマウンティングは悪いこと・恥ずかしいこととして扱っていますが、必ずしもそうじゃないことは理解しています。
……が、「マニア」的な意味でのオタクが外側の目を気にしてアピールに腐心しはじめたらそれはオタクとしての自殺だし、最初からその意図でオタクコンテンツを愛好するならやっぱりオタクとは性向が違う人々なのではと感じます。なんていうか、SNSがあっても簡単にはつながれないからオタクなのだし、だからこそ同好の士が尊いのだし、自由な世の中と出会いの場(イベントやSNS)がありがたいわけで。

 

余談2

攻に肩を抱かれながらカメラ目線で舌をだし中指を立てて「人の趣味に文句つけんな」って哂う花宮真が浮かんだんですが超かわいくないですか。攻は瀬戸だと最高ですがわりと誰でも素敵だと思います。誰かイラストにして……。

 

映画「ドリーム」感想とか考えたこととか

映画「ドリーム」見てきました。

 

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映画『ドリーム』オフィシャルサイト - 20世紀フォックス

1962年に米国人として初めて地球周回軌道を飛行した宇宙飛行士ジョン・グレンの功績を影で支えた、NASAの3人の黒人系女性スタッフ、キャサリン・ジョンソン、ドロシー・ボーン、メアリー・ジャクソンの知られざる物語を描いたドラマ。ソ連とアメリカの宇宙開発競争が繰り広げられていた61年、米バージニア州ハンプトンにあるNASAのラングレー研究所に、ロケットの打ち上げに必要不可欠な計算を行う黒人女性グループがいた。なかでも天才的な数学の才能をもつキャサリンは、宇宙特別研究本部の計算係に抜てきされるが、白人男性ばかりのオフィス環境は、キャサリンにとって決して心地よいものではなかった。一方、ドロシーとメアリーもそれぞれ、黒人であるというだけで理不尽な境遇に立たされるが、それでも3人はひたむきに夢を追い続け、やがてNASAの歴史的な偉業に携わることとなる。

ドリーム : 作品情報 - 映画.com

 


良い映画でした。面白かったです。そして、うまいこと一言で「こういう映画でした!」って言えないかんじです。
巷では「才能ある女性たちの痛快な云々~」と喧伝されてますがそういう映画かって考えるとちょっと首をかしげる
素晴らしいところや考えることはいっぱいあったので、とくに構成せずに書き散らしていきたいと思います(いつもそうじゃねーか)。ネタバレあります!
感想というよりは、見て考えたことの羅列です。

 

誰も差別解消になんて興味ない

この映画がとても正直だなと感じたのは、白人キャラのほとんどは差別解消に興味をもっていないという点です。

キャサリンの上司ハリソンは彼女の才能を認め、不便な状況の解決に積極的に動きはしましたが、彼はキャサリンの能力をフルに使いたかっただけであって黒人女性差別をなくしたいわけではありません。キャサリンに与えたありとあらゆる例外は、ソ連に先を越されて自分の進退と夢とアメリカの安全が危ねえという焦燥感がもたらしたものです。キャサリンの頭脳を一分一秒でも絞り切りたかっただけです。心は月に行ってる、なんて言っちゃうようなロマンチストではありますので、トイレ問題について聞いたときいよいよ心底情けない気分になったというのもあるでしょうが。
自らハンマーを振るって「非白人トイレ」の看板をぶっ壊したのはスカッとするシーンですが、そんだけケツに火がついてたということでしょう。少なくともIBMよりはキャサリンをあの時点で貴重だと感じてたのは間違いないようですが。
計算係が不要になって担当を外さざるを得なくなったのが残念なのは本音でしょうが、あれも彼女の能力を手元に置いておきたかったのが一番大きいんじゃないかなあ。NASAの職務規約上、たぶん何かに引っかかって遺留できなかったんでしょう。(おそらく秘書が残留方法を調べさせられ、結局手立てがなかったと思われる。だから秘書がちょっと好意的だったのです)

ケツに火が付いた結果、キャサリンの才能を明確に認めざるを得なくなった人物はもう一人います。
マーキュリー6号のパイロット、ジョン・グレン。搭乗時から黒人女性たちにも握手をしてあげるなど、いかにも偏見がなさそうなキャラとして登場した彼です。会議に参加するキャサリンにも嫌な顔一つ見せず(他のパイロットは多かれ少なかれ渋面を作っていた)、数字を導き出すたびに「いいね!」ボタンをおしてくれる。……でも、それだけだったと感じます。
記者会見のシーンで顕著なように、彼はひょうきん者で場の空気(あのタイミングでは、ソ連に宇宙開発競争で負けて最終的にミサイルとか撃たれるかもという恐怖)を明るくすることを旨としている節があります。だから、黒人女性が来るというイレギュラーがあっても会議を明るくやりたかった。だから、いいねボタンを押す。
しかし、いいねボタンの対象は常にキャサリンが導いた「数字」であってキャサリン本人ではありませんでした。そこがジョン・グレンの限界で、バランス感覚でした。本当に偏見がなく、差別を解消しようという気があるのなら「彼女はすごいね」と言わなければならないのです。けれどそれをやってしまうとNASAや政府のお偉方ににらまれてパイロットの順番を後回しにされるリスクがある。だから代わりに数字を褒める。……というのを無意識にやってたという描写だと私は感じました。
そんなグレンが最終的に名指しで(まあ名前は覚えてなくて「that girl」って言ってたけど)キャサリンを認めるに至ったのは、やっぱりケツに火がついていたからです。ケツに火っていうかロケット点火前っていうか。まあ要するに「数字が間違ってたら俺は死ぬ」という状況に至ってなりふり構っていられなくなったわけですね。

ハリソンとジョン・グレン、それぞれキャサリンを認めたのはまさにケツに火がついていたからだと私は思っています。ハリソンは自分のキャリアと夢が、ジョン・グレンは直球で生死が、キャサリンの頭脳にかかっていました。そういう状況下であれば肌が白かろうが黒かろうがペニスがついていようがいまいが関係ねえ!!ってなるのはまあ当然です。でも、これだけなら、溺れる者が藁をつかんだだけ。
ふたりとも黒人差別にも女性差別にも興味はなかった。でも、それを放っておくと自分が落とし穴にはまることを思い知った。ならば、これからどうする?って考えられるかどうかが、まさに人間性と知性を問われるところなわけで。
ハリソンはポールに「天才を導かなあかんぞ(こっちまで来れなさそうなら道をつくるんやぞ)」と言い含め、ジョン・グレンは地球に帰ってきてからも「彼女にお礼を」と通信を入れました。
痛い目を見たのに過ちを放置するのは馬鹿のすることですからね。

 

差別を解消しようとすることは、誰かを不快にさせること

この映画は差別を解消するための行動が誰かを不快にするというのをはっきりと描いているのが素晴らしいと思っています。
ドロシーとミッチェルのやりとりに顕著ですが、たとえば正当な昇格・昇給を求めたり、教育の手段を求めたり、いっしょのコーヒーサーバーを使おうとしたりすると白人が眉をひそめる。場合によっては、同じ黒人の家族にも不快感を表明される。

まあ、そりゃそうなんですよ。昨日まで汚いもの扱いしてた人が同じ水飲み場使ったら嫌だし、自分が関係ないルール改定のために書類をつくるの面倒だし、規則つくったの自分じゃないのに詰められるし、「理不尽だ!波風立てやがって!」って感じるのはそりゃそうだよねって話で。
基本的に差別してる側ってその意識がないので、被差別者が平等な扱いを求め始めたら「面倒くせえな、わがまま言うんじゃねえよ」ってなるの当然なんですよ。もしくは「私悪いことしてないのに怒ってる…怖い…」みたいな被害者意識になるか。客観的にとらえなおして「あ、ごめん。直すわ」って言えるのはかなりの知性とモラルを備えてないと無理。たぶん全人類の8%くらいしかできない。
だからもう、差別解消するなら誰かを不快にすることは避けられない、くらいに思っておいたほうがいいのだろうなと改めて感じました。目の前の人を不快にしてでも、貫きたい正しさや欲求があるなら仕方ない。一回乗り越えたら次の世代は双方楽になるし。

……ここまで考えて、差別解消と日本人的倫理観の相性の悪さに絶望を覚えましたよね。日本の道徳でいう「和」とか「他人に迷惑をかけない」とかって周りの人を不快にさせないことが要件に入ってるから……。そして和は公正さよりも日本では優先されるから……。うっわあ。

 

勲章よりも人間扱いを

子どもの誕生パーティで、ジムがキャサリンに「謝らせてほしい」と言ってからの一連のシーンが大変好きです。
ジムが何を言ってもキャサリンが「uh huh」って塩対応し続けるのが面白くてですね。キャサリンがすぐにネタばらしをしてるんですが、ジムは謝らせてほしいという口実でキャサリンをダンスに誘ったのにsorryって言わずに口説き始めたんですよ。それは順番が違うだろ、っていう「uh huh」です。
この映画、白人が黒人にニグロって言ったりcoloredって言うシーンはほぼないんですが、「女なのに」「男じゃないから」って言葉はみんなホイホイ使うんですよね。男女差別はまだぜんぜんオッケーだったことがうかがえます。
(わかりやすいのはメアリーが技術職への申請をミッチェルから断られるシーン。ミッチェルが最初に言う理由は「技術職は男だけ」でした。学識要件を満たしていないというまっとうな理由があるのに、それを言わずに「女だから」で通ると認識しているわけですね)
話を戻しますと、キャサリンの「uh huh」は「私を口説く(女扱いする)前に、謝る(対等な人間扱いをする)のが先でしょ」という意味です。だからちゃんと謝ったらちゃんと口説かれる。

黒人女性を対等な人間扱いしてないシーンはこの映画には山ほどありますが、一番笑ったのはキャサリンに検算を頼むため、データを持ってサムが西館へダッシュするシーン。
電話ねえのかよ、って思ったよね。
史実のNASAではどうだったかわかりませんが、あの映画内での非白人計算室には電話が通ってないのはほぼ確実。なんで通してないんだよめっちゃ不便だろって話なんですが、要するに言葉を話せる家畜扱いから黒人が脱してないってことですよね。そのせいで白人男性が半マイルを往復ダッシュするはめになるわけですが。(電話があればキャサリンがダッシュするだけで済んだ)
同じ敷地内にいる人を平等に対等な人間扱いしないと痛い目を見るよ、という教訓がここにも表れています。

象徴的なのはラストシーン。キャサリンと対立し続けたポールが、残業をしている彼女にコーヒーを手渡す。本当になんてことがない親切なのに、ここに至るまですごい葛藤があったことを観客は知っているわけで。
いっしょに観に行った友人が「なんでラストカットがキャサリンの名前がついた研究所(Katherine G. Johnson Computational Research Facility)の看板じゃないんだ?」と言っていましたが、その理由は明白。勲章をもらうより、自分の名前がついた研究所を作ってもらうより、同僚がみんな対等に扱われる世界をつくって維持するほうが難しいからです。


資本主義の前提としての差別解消

今なお差別はバリバリ残っているものの、50年前まで分離政策を維持していた州がある中でよくアメリカここまで頑張ってきたなというのを感じた映画でした。
しかし考えてみれば差別解消って資本主義の大前提みたいなところありますし、当然と言えば当然なのかもしれません。(ちゃんとそういうところに目を配ったり勉強した方には自明でしょうし、ちょっと今更気づいたの恥ずかしくはあるのですが)

資本主義というのは要するに競争原理をもとに社会を回していこうぜ!という考え方です。みんなが競争してよりよいものをつくったり高い能力を身につけたりして社会に貢献し、貢献度の高い人が金銭というかたちでより多く報われる。それが資本主義のざっくりしたルールです。(他にもいろいろありますが今回はここが大事)
重要なのは競争が適正に行われること。要するに、みんなが本気を出せるルールであることです。さらに、参加者が多ければ多いほど良い。たくさんの人が参加するほど、ピラミッドの頂点は高くなるのです。
もしもルールが一部の人(たとえば白人男性)だけに有利だったら、優遇された人はさぼりますし不利な人はやる気をなくします。人種や性別によって教育機会やキャリアアップではじかれれれば参加者が減り、必然的に競争はぬるくなってしまいます。社会が向上していきません。放っておくと資本主義の根本がシロアリに食い荒らされたごとくぼろっぼろになります。
だから差別解消は常に推進されなければいけません。スポーツがルールの公正な運用を前提としているように、資本主義は漸進的に差別がなくなっていくことを前提に存在しています。
言いきっちゃいますが、差別主義者は資本主義の敵です。別の主義をつくってそっちでやってくれって感じです。

 

 

「私のためのトイレがない」人は今日も隣にいる

中盤でキャサリンが「半マイル先にしか私が使えるトイレがない!」とキレるシーンは印象的です。
被災地などで真っ先に問題になるように、排泄がちゃんとできるかどうかは人間のストレス度に直結します。災害ならばまだ我慢と諦めもつきますが、これが日常なのはたまったもんじゃない。
しかし恐ろしいことに、職場でトイレを使えない人はまだまだ一定数いるのです。この日本にも。

パッと浮かぶのは身体障害者でしょう。多目的トイレがない職場では物理的に働けない。わかりやすいですね。
わかりづらい人たちもいます。たとえばトランスジェンダー性自認と逆のトイレに入らされるストレスはかなりのものらしく(私は経験がないので想像しかできないですが)、自宅外でトイレが使えない方は多いそうです。かといってカミングアウトしていないなら多目的トイレも使いづらい。……トイレはあるけど使えるトイレが、ない。

映画を観ている最中も心配だったのですが、体が女性の場合は月一で生理がくるんですよ。トイレに行かなきゃならない頻度があがるんですよ。当時のアメリカですでに働く女性はタンポン派が多かったようなのでキャサリンもそうだと仮定しますともう一つ怖いことがありましてね。トキシック・ショック症候群という、要はタンポンを適切な時間内に取り換えないと最悪死ぬっていうやつなんですが。慢性的に長時間勤務だと怖いなーと思いながら見てました。

まあ、何が言いたいかっていうとトイレがちゃんと使えないってのはかなり人権が危ういってことと、キャサリン状態の人が隣の席に座ってるかもしれないってことです。

 

 

 

……ざっと思いつくのはこれくらいでしょうか。
異様に上映館が少ないですが本当にいい映画なので、万が一観てなくてここまで読んじゃった方はぜひシアターへ!

 

 


余談

NASAの会議室や偉い人のオフィスにケネディの顔写真が掲げられてるカットが映るたびに「すごい!全体主義国家みたい!」と思った。

世界は進歩している~ミュージカル「パジャマゲーム」感想~

!注意!
ふつうの感想エントリではありません!
北翔さん美しかった!とか新納さん格好良かった!みたいなことはあんまり書いていません。お二人とも素敵でしたがお二人が素敵だったことは他のブログがほめたたえているはずなので私は別の話をします。
ネタバレもあります。ネタバレしかないレベルです。

 

 

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10/1(日)マチネ パジャマゲームを観劇してきました。

時は1954年。周囲の工場が次々と給料アップを果たす中、スリープタイト社のパジャマ工場でも労働組合が立ち上がっていた。

組合の中心はベイブ・ウィリアムス(北翔海莉)と組合委員長プレッツ(上口耕平)。彼女達は時給7セント半の賃上げを求め、奮闘する毎日を送っている。
そんな中、社長ハスラー(佐山陽規)が雇った新工場長のシド・ソローキン(新納慎也)は若くてハンサム。女子社員の間では、お昼休みも右腕チャーリー(広瀬友祐)を連れて一生懸命働く彼の噂で持ちきりだった。
工場のタイムキーパー ハインズ(栗原英雄)は「もしや自分の恋人も…」と社長秘書である恋人グラディス(大塚千弘)の事が気がかりでしょうがない。シドの秘書メイベル(阿知波悟美)はそんなハインズを優しく諭し、新工場長は上手くやっていけるかと思えたのだが、反抗的な従業員との間でトラブル発生!駆けつけた労働組合と工場長、相対する立場のベイブとシドが運命的に出会う。

一目見た瞬間から惹かれあう二人だが、ベイブは自分の立場を優先するあまり、彼の誘いにつれない素振りをしてしまうのだった…。

http:// http://pajama-game.jp/about/

 

 

 

最初期のトニー賞受賞作ということで、わくわくしながら劇場へ。
ミュージカル・コメディと打ち出されたとおり明るくハッピーな作品でした。古き良きミュージカルソング、というかんじのナンバーが多くて多幸感やばい。
とくにピクニックのシーンは鍛え上げられた肉体で繰り出されるポップな外遊びダンスがとってもかわいかったです。1954年当時モデルのサマードレスがひらひらするの素敵だし、オーバーオール男子たちが頑張ってるのキュンキュンきます。

 

それと同時に、素に戻ってしまうシーンがたくさんあったこともまた正直なところでした。

役者さんたちのせいではありません。みなさん非常に見事に演じていました。
スタッフ・キャストの技量のせいではなく「えっ?」となってしまうのは、脚本のせいです。この作品が1954年当時に1954年当時の世相を1954年当時の観客に向けて作られたせいで、2017年の我々にジェネレーション・ギャップを生んでしまったのです。
たとえるなら自分の父親が「俺たちの時代は徹夜なんてしょっちゅうだったのに最近の若者は……」と悪気なく言うのを聞いてしまった気分。
不可避の事態だったと感じます。
(でも演出のトム・ザザーランドはその辺把握して演出つけたんじゃねえかなという疑惑が個人的にはあります。グランドホテルでの所業を私は忘れていないぞ(褒めてます))

 


具体的にあげていきましょう。
さきほども話題にしたピクニックシーン。歌に入ってからはハッピー&ハッピーなのでいいのですが、問題はその前。

あらすじにも登場している労働組合委員長プレッツが、いわゆるヤリチンであることが発覚します。彼氏持ちの女にアプローチをかけたかと思えば、その女に振られると別の女の子を二人きりで森の中を散歩しようと誘います。
しばらくするとプレッツに誘われた女の子が「あんたの散歩ってのは押し倒すって意味なのね!」と叫びながら逃げ戻り、プレッツが後を追いかけてくる。同僚の女性たちは女の子をかばい、男性陣も若干非難めいた反応。
でも、それだけ。
プレッツは排斥されることなくピクニックに参加し続けます。

おいおいマジかよ!?って思うじゃないですか。
強姦未遂は微妙としてもセクハラの相当重度なやつであることは21世紀人であれば合意できるでしょう。
でもプレッツは作中で報いを受けないんです。
てゆーか人気者なんですよ。組合の委員長任されてるくらいだから信用あるし、ピクニックも幹事やってるし。友達たくさんいそうだし。なぜかピクニックの最後で年増に食われるし。
ちなみにプレッツは既婚者です……。

もうこの時点で「正義がない……この組合には正義がない……。だめだ賃上げ交渉を心から応援できない。工場長を非難する前に組合委員長のリボルバーを切り落とすのが先だよ……」みたいな気持ちで観るしかなくなるじゃないですか。
「でもこういう職場、いまの日本でも山ほどあるだろうな」とか浮かんでくるのを必死で押さえつけるじゃないですか。組合のトップがセクハラ野郎のヤリチンって地獄かよ。
舞台上では主役バカップルがすんげえ楽しそうに歌い踊ってるじゃないですか。
すんごい座り悪いよね。
(何度も言いますがパフォーマンスは素晴らしかったんですでも人によっては闇を感じるうえにそれを登場人物たちが無かったことにするからああああああ)


パジャマゲームの縦軸が賃上げ闘争ならば横軸は主役カップルのラブストーリーなのですが、そのラブストーリーも現代感覚だとかなり怪しかったです。
だってこいつら、対話してない。
主役カップルは工場長×組合の女性取りまとめ役という考えうる限り社会ステータス上最悪の組み合わせ。お互い一目ぼれしたものの、最初はヒロイン側が付き合いを拒否します。クレバー。
しかしヒーローが押し切る形で(妥協っつってたけどあれはゴリ押しだ)ヒロインは流されてバカップル化。
まあそれはいい。足元が地雷原なのを忘れて舞い上がり、事故ったのもしかたないとしよう。恋愛ってのはそういうものだ。

でも一度痛い目みたら学ぼうよ!?
具体的にはちゃんとお互いの話を聞こうよ。二人とも「俺の話を聞け」ってばっかりで「お前の話を聞かせろ」とは言わないの、劇中の賃上げ闘争レベルで平行線だったぞ。
恋愛がらみのナンバー、基本的には「あなたが好き(そのために私は困っている)」しか言ってねえの私は知っているぞ。

これがですよ。最終的に二人が対話し理解し妥協しあうことによって、労使間の相互理解と妥協が生まれたら美しいじゃないですか、物語として。セカイ系じゃないですか。
そんなことに全然ならないんですよ。
工場長が(恋愛がモチベーションになったことは否定しないけど)一人で頑張って、妥協に至るキーを獲得して社長をうんと言わせただけです。
解決の直前に二人がしたのは「言い訳をさせてくれ」「あなたの話なんか聞きたくない」という最高にすれちがった会話。
工場長よ、「労使間交渉のゴールは妥協です」ってお前が言ったんだろ……。妥協するには相手の立場を知らなきゃいけないんだよ……。
そして賃上げにOKがでたことで、二人が劇中のトラブルを水に流すことでハッピーエンド。でした。


続かねえー!ぜってえこの二人続かねえー!
ヒロインがふつうの性格だったら別だけど(この時代にしては珍しく)自分の意志を強く貫くタイプだからいつか絶対似たようなトラブル起きるー!
そのときの解決策が今回見出されてないー!アウトー!

……って思いましたね正直。
いや、トラブルが起こるたびに別れたりくっついたりする気なのかもしれないですけどね。迷惑だけどあの二人っぽさはある。


ぶっちゃけ脇役カップルのほうがよっぽどコミュニケーション取れてたんですよね。年季はいってるのもあるでしょうが。
彼氏がヤキモチ焼きで、セクシー秘書の彼女はスキンシップ過多なタイプ。彼氏はいつも彼女の一挙一動にハラハライライラしている。
ハンサムな工場長に秘書がメモを残したのを「なんだこれは!」とキツく詰め寄る彼氏。秘書が「言いがかりはよして。中身を読みなさいよ」と促すと、内容は本当にただの業務メモ。愕然とする彼氏に「それ、モールス信号でI love youって意味だから」と捨て台詞を残して秘書退場。

……ってシーンが冒頭にありましてね。これだけでちゃんとコミュニケーションが取れてるのわかるじゃないですか。
彼氏は早合点してキレるけど「どういうことだ」って彼女に話させようとするし、彼女も彼女できちんと反論して怒りの表明(皮肉)ができている。
(このレベルでコミュニケーション取れてるって主役カプどんだけだって思うでしょ?ほんと対話してないんですよ)
秘書カップルは安心してみていられました。幸せになれ。大塚千弘さんのセクシー秘書グラディスくっそかわいかったので、彼女を見るためにもう一度劇場に行きたい気もする。めちゃめちゃ可愛かった。

 

 


ここまで書いたことがいちゃもんだってのは重々承知してるんですよ。
でもモヤモヤしたし、モヤモヤしたということが良い兆候であることも知ってます。
21世紀日本の感覚でパジャマゲームが受け入れがたいということは、60年前よりは現代はかなり進歩しているという証だからです。

私はセクハラがまるで何でもない事かのように描写されているのは受け入れられないし、男女が(むろん同性同士でも)対等に対話していないのを良い恋愛とは思わない。2時間残業がデフォな職場は少なくともグレーだと感じるし、盲目的な信頼は害だと考える。
あと登場人物が状況を作るためのコマになっている作品はあまり美しくないと思うし、コメディであっても辛い描写は濃くやっていいと思うし、ペラいキャラが主役級にいると辛く感じます!!(とくに主役とチャーリー!)

社会もミュージカルも進歩してる。いまは1954年じゃない。
それをはっきり感じられただけでも、パジャマゲームを観に行ったのは正解でした。
かくあれ。進歩してゆけ。21世紀の私たちを置いていけ。

 

 

ねじってねじってお腹をへらす

朝一番に胃もたれを感じると悲しくなりますね。ハリハリです。


昨日会社の歓迎会があったんですよ。焼肉飲み食べ放題という、仕事飲みとしてはけっこう異例なお店チョイスでしたが案外と盛り上がりました。常に手を動かしていられるからかなんとなく雰囲気が明るくなりますね。

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肉だけじゃなくサイドメニューも豊富なお店だったので「たこ焼き頼んだの誰ですかー」「俺ー」「ちょ、部長ですかwwwww」「好きなんだよたこ焼き!」みたいな微笑ましいやりとりが発生しました。
幹事から店名聞いたときは大丈夫かよと内心思いましたが、けっこういいです職場の飲み会で焼き肉。偉い人の意向とかは気にしなきゃですけどね。


そんなわけで楽しい飲み会だったじゃないですか。
たくさん食べて飲むじゃないですか。久しぶりにジョッキ3杯いっちゃいましたよ。
まあ……胃もたれしてますよね翌朝。

 

私は基本朝ごはんガッツリ食べる派なのですが、こういうときは容赦なく抜くことにしています。

食いすぎは内臓に相当負担かかってるんじゃねえかと最近思ってるんですよ。たとえるなら納期ぎりぎりで徹夜をしたチームみたいな。そこに翌朝通常どおりの業務(朝食)をぶち込まれたら殺意が湧くし能率は下がるし最悪脱落者が出ます。ちゃんと休ませてあげなければなりません。

一食二食くらいなら日中にエネルギー切れも起こさないし(体力仕事の人は別)、そもそも荒れた消化器がまともに栄養吸収させてくれるとも思えないんですよね。お腹の違和感が消えて、ちゃんとお腹が空くまでがまんです。
注意点としては水分補給は普段の倍くらい摂る気でいかないと脱水で倒れます。食事に含まれている水分量は馬鹿にできないです。あ、コーヒーなどの利尿作用があるものは水分カウントしちゃだめです。


そこに加えて、ヨガで内臓を刺激していきます。
ざっくり調べた感じ、ねじり系のポーズが効くようです。
猫のねじりのポーズとか、三角のポーズとか、ねじりのポーズ(マリーチ・アーサナ)とか。

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ねじりのポーズ

www.zakzak.co.jp



ねじりのポーズは簡単なのでちょっといま床に座れる方はやってみてほしいのですが、確かに内臓に刺激がいくんですよ。マッサージされてるかんじ。
徹夜して死にかけてる内臓部隊を「お疲れー。元気出してね!」ってかんじで応援してあげるつもりでねじねじします。
ちなみにねじりのポーズは別名「半分の魚の王のポーズ」という格好いいんだか悪いんだかわからない別名があります。TCGにありそう。

 

胃腸がふつうのときも、朝にヨガで体動かすとめちゃめちゃお腹がすくので朝ごはんがおいしいです。体をねじるとお腹が鳴ることも多いですね。起きてから1時間くらい経って朝食にしてるから当たり前っちゃあ当たり前なんですけど。


そんなわけで今朝は切ってもらったトマトだけ食べておそ松さん2期第1話を見て出勤しました。
なんで1話の感想エントリをあげなかったのかというと、自分の中で整理がまだついていないからです。
でも一言だけ言わせてくれ。「I♡MY」はかわいすぎる。

チューニングってなんだったんだろう

今朝方、懐かしい夢を見ましてね。
高校の吹奏楽部のメンバーに再会して、合奏をしようってなったんですよ。
それでチューニング(音程合わせ)をまずやるんですが、全員てんでばらばら。ピッチのずれで音がぐわんぐわんしていました(わかる人にしかわからない表現)。
指揮者の子が一人ずつ重ねていくよう指示。私は最後の一人でした。
先頭から一人ずつ重なっていきます。私の耳には微妙にずれて感じたりもしてましたが、指揮者の指摘はありません。
近づいてくるにつれ、私は不安になっていきます。
何年もずっと練習していない。ちゃんとB♭の音を覚えているだろうか。
そのうちに私の番が来て、ええいままよと吹き鳴らし――その場にいた全員が、顔をしかめました。
「ちょっとヤバいよ、ハリハリ」とマジトーンで言われ、いたたまれなくなって顔をうつむける私。心臓がぎゅっとなり、息が浅くなる。

 

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……というところで、目が覚めました。
なんだこの妙にリアルな夢。
私にとって、いまだにチューニングと吹奏楽部のイメージってこうなんだなと朝から悲しい気持ちになってしまいました。

 

うん、もう十年経ってるし時効だと思うのですが、けっこう辛かったんですよね吹奏楽部。とくに練習(メインじゃねーか)。
友だちもできたし楽しいこともあったけど、手放しで「最高だった!充実してた!楽しかった!」とは言えないです。

 

ハリハリと吹奏楽部……合わなすぎ?

harimarin.hatenadiary.com

↑のエントリでちらっと書いた通り、そもそも私は他人にパフォーマンスを見て・聞いてほしいという欲求が薄いです。喜んでもらうために努力するって気持ちが根本的にわかりません。


いま同人活動しているのは自分の萌えを形にしたほうが扱いやすくて楽しいからで、pixivにあげたり本つくったりしてるのは「おすそわけ」に近いです。ついでです。
もちろん読んでもらえたほうが嬉しいけど、ブクマ0頒布数0でもコアの意義は失われないからさしたるダメージではありません(頒布数0は財布にクるからいやだけどね)。

ブログも同様です。はじめてのエントリで書いた通り、ハリハリが自分がどういう人間なのか知るために書いてるブログなので基本的にリアクションは必須じゃないです。ノウハウ記事も半分は自分のために書いてる。

 

そういうタイプの人間に、発表会文化ってあんまり合わないんですよね。
一般的な吹奏楽部はもろに発表会文化です。夏に大会があって、文化祭や地域のイベント等で客演ステージをやらせてもらいつつ、一年の集大成として定期演奏会(3月ごろが多い?)を行うというのが一般的な年間スケジュール。

発表会文化:発表の場があらかじめある→良いものを見せるために練習する
自己欲求優先型:なんか楽しく練習して好きな曲吹いてる→人に見せてみるか!

大人になったいま思うと自己欲求優先型の私と吹奏楽部、相性悪すぎて笑うわ。

 

てゆーか本当にわからないんですけど、発表会文化に適応できる人間はなにをモチベーションにしてるの?評価?得られるかどうかわからない他人からの評価のために頑張れるのって逆に狂気じみてると思うのは私だけか……?
それとも「がんばった自分」という充実感なのかな。それならまだわかるかも。なにも生まない可能性があるという点では自己欲求優先型と同じくらい周りに優しくないけどね。


中高生当時の私にとって悲惨だったのは、私は演奏が上達してもさほどハッピーじゃねえと気づいていなかったことです(聴衆が喜んでもハッピーじゃないことには気づいてた)。だから仮に自己欲求を優先する決断を当時していたら、まず吹奏楽部をやめていましたw
比べるのもあれですが、上手く演奏できた時の喜び<<上手くロールプレイ(TRPG)できたときの喜び ってかんじです。
それで毎日三時間とか練習してたんだからコスパ悪いにもほどがある。

 

でも、真剣には練習してたんですよ。真面目でしたし、なにより……怒られたくないし、恥をかきたくないから。

 

チューニングは闇が深い

ここで冒頭のチューニングの話に戻りましょう。
チューニングとは、演奏参加メンバーで楽器のピッチ合わせをすることです。吹奏楽では通常シのフラット(B♭)で行われます(オーケストラだとラです)。
練習時間は限られていますから、迅速に合うことが望ましいです。そのため大人数が参加する合奏ではあらかじめパート(楽器)別にチューニングをしておくことが慣例になっています。そしてパートでチューニングをする前にも、個人個人でチューニングをしておきます。

それでいざ集まった時にぴったりチューニングが合えばいいのですが……世界はそんなにやさしくありません。
素人集団ですから、気温や気圧や湿度やその日の体調やメンタル具合であっさりチューニングはずれます。ずれるとどうなるか、まずずらしている人が含まれているパートを指揮者あるいはその場のリーダーが特定し、そのパートのみでチューニングをさせます。数度調整してまだ合わなければ、さらに人数をしぼったり、あるいはちょっと合奏会場から出て合わせてこいと追い出されます(ここまでキツイ言い方はされてませんが、要はそういうこと)。

毎回軽度な魔女狩りに遭っている気分でした。もう体はガッチガチでまともに鳴るわけねえって状態でしたねいま思うと。ちなみに音感を後天的につけて、なおかつ下手な人間は自分のピッチが正しいか確信が持てないので、チューニングをやるたびにおびえるはめになります(ハリハリもそうでした)。初心者にいっさいやさしくない……。

チャゼル監督の映画「セッション」をご覧になった方は、モラハラ教師が「ピッチずれてるのは誰だ。お前か?お前か?」ってやってるシーンを思い出してください。あれほどではないですが、あれの軽いバージョンのプレッシャーが毎回かかります。

かなり悪意をこめた描写ですが、あまり上手くない(中途半端にやる気のある)吹奏楽部のチューニングってマジこんなんです。
ちなみに指揮者やリーダーがちゃんと上手い人ならいいのですが、耳がさほど良くない人だと冤罪が発生する可能性もあります。終わらないチューニングは吹奏楽部三大悪夢のひとつです。

 

もっと効率的に楽しくチューニングを使えないもんか

あの現場をはなれて思うことはですね、楽器を持って集合したらいつなんどきであってもチューニングがばっちり合っていなければならない……って前提は捨てたほうが上達するんじゃね?ってことです。
たいして本気じゃない集団なら、チューニングは健康チェックくらいにしておいたほうがたぶんマシです。だって演奏してるうちにどうせずれるし直せないし。なんなら、練習ひと区切りするごとにチューニングさせていかにグッダグダになるかを確かめさせたほうが良い気がする。
初心者でちゃんと音が鳴らせないうちからセント単位のピッチ合わせようとすると悪い癖がつきかねないし。(ずれていることの認識はさせるべきだけど、魔女狩りを見せるのはヤバイ)
ずれてんなーモヤモヤしてんなーっていう状態を味わわせてから、上級生だけにチューニングやらせて一発でパーン!と合ったら格好いいじゃないですか。練習しようって気になりますよ。まあこれは上級生が上手いこと前提だけど。


……まあ、半ば愚痴なんですけど。
なんだったんでしょうね。チューニングって。
いまだに「響け!ユーフォニアム」が怖くて見られないんですよ。トラウマ刺激されそうで。


シゴキ系の部活は影をひそめつつあるそうですが、吹奏楽は密室でやるので暴力はなくてもモラハラは起こしやすい環境かと思います。(私の所属していた部活には幸いにもありませんでしたが、でもちょっとバランス崩したらあり得た話です)
風通し良く。明るくさわやかに楽しく。無理しない。
それがあらゆる部活の常識になったらいいなと心から思う今宵です。

 

余談

吹奏楽をやっていたときからほのかに自覚はあったのですが、深く呼吸しようとすると鳩尾のあたりでつっかえて吸いきれない/吐ききれないという違和感をずっと持っていました。上手くならねーわけだよ。
社会人になって合唱やっても治ってなかったですね。
いまちょっとググってみたら、体が歪んでいるせいかもしれないというのを見て爆笑しています。体が歪んでると楽器演奏もままならない。

ヨガは成長を求めないのかもしれない

ヨガを始めて一か月が経過しました。教室の月会費も更新し、二か月目も通い続けそうです。

頭の中でごちゃごちゃ考えて勝手にイラつきMAXだった日でさえ、一時間がっつりと体を動かすとだんだん頭の中が静かになってレッスン場を出ていくときには平常心になっているのがとても面白いです。これはどんなお稽古事でも似たような効果が得られるでしょうが。

 

今回はひと月ヨガをやってみてふと感じたことについて話そうと思います。
「もしかして、ヨガって実践者の成長を必ずしも意図してないんじゃない?」という仮説です。

 

ヨガの特殊性

ヨガをはじめるきっかけはそれぞれでしょうが、たいていは何かしら目的を持っていると思います。
体力つけたいとか、肩こり直したいとか、メンタルケアしたいとか、痩せたいとか。自分が持っている不調を改善しようとして来るわけですね。
そうなると理想は前回のレッスンより今回のほうが良くなっていること。成長しつづけることです。
前より前屈が深くできるようになったり、ポーズが一段階難しいのにできたり。もし前回よりも悪くなっていたらがっかりした気持ちになります。「集中しなきゃ!」と自分を叱咤するかもしれません。

……が、少なくともヨガにおいては「前回より下手になっていてはいけない」は妥当しないっぽい雰囲気をこのひと月で感じています。
成長し続けること、前回よりも良くなっていることがベストとは限らないんじゃないか、ということです。


私の通っているレッスンの開始時に毎回行われるイントロダクションをご紹介しましょう。

  • 自分のための練習にしてください。
  • 無理をしない。
  • 痛いと思ったらひとつ前に戻る。
  • 周りと合わせる必要はありません。
  • 必要だと思ったら自分の判断で休憩(チャイルドポーズ)を入れてください。
  • インストラクターがアジャスト(正しい位置への調整)をして合わないなと思ったら教えてください。

どうですかこの徹頭徹尾自分を優先しろってかんじ。


実際に練習をはじめると、体の使い方の指示と同じくらいの頻度で自分の体の状態をよく感じろという指示が入ります。

 


ヨガのポーズには明確な難易度調整が可能なものがあります。たとえば立ち木のポーズは、上げている足が高い位置にあるほど難しいとされています。

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それなら、できるだけ難易度高いのをできるのがいいって思うじゃん?どうやらヨガだとそうじゃないっぽいんですよ。
そのポーズで一番集中して深められる難易度こそがベスト。難しければ難しいほど効果が高いってもんじゃないらしい。
高難易度はいまの自分には辛い、ってわかることは、高難易度ができるようになることと同じくらい重要なんです。

 

おそらくヨガってできる/できない、上達した/してないじゃなくて、現在の自分を観察するっていう側面が一番大事なんだろうと思います。もともと瞑想のためにポーズ(アーサナ)をやるらしいので。

『このポーズができない。どうやら腿の裏が固いらしい。呼吸も浅くなっている、少し深くしてみると……あ、ちょっと入った。けどやっぱりできない。できないことを認識した』
『このポーズは楽だ。高難易度パターンも余裕でできる。……けど、気づいたら歯をくいしばっていた。肩も詰まってる。力を緩めると……うあ、苦しいぞ難易度下げよう』

ここまで明確に意識はしてないですが、言語化するとこんなかんじ。延々ポーズとってる間自分を観察して、ポーズの範囲でベストな在り方を探していくのを75分。
(キツいポーズの時は観察する余裕すらなく「あーっあーっ!つらいつらいつら……アッー!」みたいな感じになってることもありますが、それはそれでひとつの反応)

 

今日の自分を追求することと成長し続けることは矛盾する

で、当然ながら人間日々変化していくので、ある日にベストな在り方がその一週間後にベストなんてことはありえないわけです。
先週は最高難易度がちょうどよかったけど、今日は一段階下げたほうが気持ちいい。やろうと思えば最高難度もできるけど、今日はやらない。
そういう判断が許される、むしろ推奨されるのがヨガなんじゃねえかなあと思っているのですよ。

周りの人と比べるなって指導されるとはじめのほうに書きましたよね。先週の自分自身なんて周りの生徒と同じくらい他人じゃないですか。対抗してどうすんだよって話です。

ここまでの話をもとに演繹していくと「昨日の自分よりも今日の自分が優れている必要はない」→「ヨガは成長を目的とはしてない」っていうのが自然な結論に思える。
どの教室も改善や成長を謳うけれど、突き詰めるとそこじゃないんでしょう。誇大広告だとは思わないけどね。中級者くらいまではちゃんと自然に成長曲線作るでしょうし。
自発的な欲求として成長を志すのはアリだけど、ヨガそのものはそれを要求してこない、みたいなイメージです。

 

結果的に改善や成長と見えることがあっても、それはほんとうにただの結果でしかない。しかもその結果すら途中経過にすぎない。今日まで右肩上がりだったことは明日も成長することを保証しない。明日からずーっと劣化し続けることだってありえる。
……ていうのは事実としてあるじゃないですか。修行としてのヨガがそこを想定してないとは思えないし、むしろそのときに対応するためにヨガがあるのだと考えたい。


劣化していく毎日でも「今日の自分はどんなかんじかなー?(´∀`*)」と平常心でポーズとっているのが、それなりに極めた人なんじゃないかなあ。
それってとっても、格好いいなあ。
そんなふうに、超絶ビギナーヨギーニは思っているのです。

 

 

余談

たぶんこういう話ってヨガ書籍をあたれば書いてあるんだろうと思うのですが、自分で新鮮に発見したいのでとりあえず最初の三カ月は関連書籍封印してます。クソ頭でっかち野郎だという自覚があるので、知識入れた瞬間に自分で考えなくなるのは経験済み。
朝ヨガのためにYoginiの太陽礼拝特集号だけ買いました。雑誌買うの久しぶりだったので、めちゃくちゃ広告多いんだなって驚きました。


余談2

私の通ってる教室は生徒間のつながりが最小限なのでとても気楽です。でもレッスン中にキツイポーズが入ると誰も何も言ってないのに「クソつらい!」っていう感情がガッと共有されるのめっちゃ面白いです。趣がある。
TLで同時多発的にフォロワーさんたちが萌え転がっているのをみる感覚に近い。

朝ヨガってやつをはじめました。

朝ヨガ=(早起きして)朝にヨガをすること、です。
とりあえず以前より四十分早起きして、太陽礼拝5セットと肩こりに効くポーズをひとつかふたつ、ってかんじでやってます。
何事もそうだけれど、回数をこなすのってやっぱり大事だと思うのですよ。
週に1回75分だけやるのと、プラス毎日20分やるのはちがう。
ヨガマットも買っちゃったし~。

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次はヨガブロックがほしい~☆
ヨガウェアもほしい~♪(物欲)

 


まだ三日目ですが、ちょっとダウンドッグが上手になってきたなという実感が出てきました。


実はシャバアーサナ含めても20分くらいで終わるので、残りの20分弱はこうやってブログ書いたりしています。
ふだんどおりの分量を一本書くにはちょっと足りないので、二日に一本くらいのペースかな。
短い時間で集中するので、思いのほかちゃんと書けますね。なるほど朝活が流行るわけだ。
同人イベントが近くなったらこの時間帯を使って原稿をしたりすると思います。
早起きして男同士がいちゃいちゃしている小説書いてる図ってけっこう滑稽ですが私は本気です。

 


今のところ一番朝ヨガの効果感じているのは、出勤時に駅まで歩いているときです。
なんかね、歩きやすいんですよ。
疲れないって言うか、無駄な力を使わない感じ?
最寄駅まで10分強歩くので快適に歩けるかっていうのはけっこう生活のハッピーさに直結するのですが、まさかの朝ヨガで改善。

 

おそらくですが朝ヨガでしっかり体幹を動かし、締めるところを締め緩めるところを緩めた結果、自然とコアを使いながら歩行ができているのではないかと思います。
ふだんの私の歩き方は重心をブレさせまくっているせいでエネルギーを余計に食い、体のあちこちを痛めているのでしょう。靴底の減りとかひどいんですよ私。外側のかかとだけすーぐ無くなっちゃう。
ちゃんと真っ直ぐ歩くだけでマジ疲れないんですね。すごい。
靴も変えてないし姿勢も別に意識してないので、本当に太陽礼拝だけで歩き方が改善された可能性大です。さすが太陽礼拝。
(※太陽礼拝はベーシックなヨガの流派で基本とされる一連の動きです。武道の型とかに近いんじゃないでしょうか。基本にして奥義的な奴)

 

ちょっと残念なのは、夕方まで良いコンディションは続かないらしく朝ほどの改善は感じられないこと。
体自体が変化していくことでだんだん24時間しっかり歩けるようになるんじゃないかなーと期待しています。

 

朝活への挑戦は何度かしたことがありますが、ここまで即効でメリットつきつけられたのはじめてでちょっとキュン///ときてます。チョロい女なので。気持ちよくしてくれるものだーいすき。瀬花ください。
そんなわけで、朝ヨガと朝活をしばらくやってみようと思うよって話でした。