ハリハリのブログ

人に見せても良いと判断した思想感情を記録しておくための保管庫

顔を見て話ができなかった頃とやっぱりできない今について

下記ツイートに触発された記事。

 

 Nスペで放送された発達障害特集で、特徴のひとつである「ひとの目を見ながら会話できない」についての感想のようです。

 

 

私が人の目を見て会話していないと気づいたのは、大学でミュージカルサークルでの稽古中。先輩から「目を見ないよね」と指摘されたときだった。

 

 

思えばたしかに人の顔を見ないことが多かった。別に見なくても理解に支障はないと感じていたし、むしろ見ないほうが頭に入る気がした。(このあたり、元ツイートでいうところの「情報過多」だったんじゃないかと思う)

しかし、目を見て話を聞くのがマナーだ。当時はいまよりも真面目で素直だった私は矯正せねばとがんばった。

そして気づいた。目を見るの、怖い。胸のあたりがざわざわして、かるく冷や汗がでる。息苦しい。貧血のように意識が遠のく気すらした。

見つめ合うと素直におしゃべりできないというのはこのことか。たぶんちがう。

 

そんなかんじでかなりの苦労はあったものの、一年くらい練習しているうちに通常会話では目を見られるようになった。相当辛かったけどな!もっとつらい人だったらひきこもりかねないぞ!

……しかし、治ったという感覚すら錯覚だったと私はほどなく知ることになる。

 

 

 

治ってはいないとわかったのは、就職活動をはじめたときだ。具体的には、インターンシップで名刺交換を学んだとき。

どうしても名刺に目がいってしまう。相手の顔に興味がもてない。まだ名刺の字面のほうが心惹かれるものがある。

そして、平気になったと思ったけど至近距離で顔を見るのはやっぱり怖かった。治せなかったのだ。今でも怖い。

 

 

結局、現在に至るまで私は人の目をまっすぐみて話はできない。会話を始めるときやよっぽど重要なときはあえて見つめたりもするが、基本的には相手の3メートル後方くらいに焦点をあわせて話している。

 相手にとっては顔を見て話しているように見えて、こちらも情報過多で息苦しくならなくていい状態がこれだ。

(人によってはネクタイのあたりを見つめていたりするらしいが、私の場合は本人に焦点が当たってしまうと辛いので距離をずらすほうが向いている)

 

思えば、私が書く小説は大事な話をするときほど互いの顔を見ないシチュエーションが多い。並んで歩きながらとか、聞き手の背中に向かって話すとか。

本音を知られると死ぬキャラを推してるせいもあるだろうが、生産的な会話は顔を見ないほうがやりやすいと内心思っているのかもしれない。

 

 

……ところで、人の目をみて話すのが辛い人って全体の何パーセントくらいいるんだろうね。2割くらいいるんなら、もうマナーから外してしまった方が合理的ではないだろうか。

見つめ合うと素直におしゃべりできないなら、見つめ合わないほうがコミュニケーションはスムーズだ。

 

 

余談

私は趣味でTRPGをやっている。それもオフラインセッションだ(そのうちオンセもやってみたい)。

顔を付き合わせて延々5時間とか会話をする遊びなのに、なぜ趣味といえるレベルで楽しめているのか?

 

おそらく理由はこんなところだろう。

理由1.ゲーム進行に大事な情報は文字ベースで管理されるため、意外と顔を見る必要はない。

理由2.ゲーム中の会話にはほとんどすべて目的がある。最初の自己紹介ですら、名前とゲーム歴とかを伝えるという明確な意義があるので、表情の情報量はそんなに重要ではない。これが世間話に代表されるプリミティブな会話は「会話している」こと自体が目的なので、表情から読み取れる微妙な情報もかなり大事で……なんだその……つらい。

 

そんなわけで、人の目を見たくない人でもオフラインセッションでTRPGを楽しむことは可能だと思う。見れた方がどうしても好感度は高くなりやすいけど。