ハリハリのブログ

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ミュージカル「パレード」感想 ~劇場で私たちは何を観たのか~

あの体験から三週間が経った。三週間“も”なのか“しか”なのかはっきりとしないが、とにかく私が東京芸術劇場でミュージカル「パレード」を観てから三週間。
私が感想を書きあぐねている間に名古屋・大阪公演も無事終わったらしく、おととい6/15に大千秋楽を迎えたとのこと。

(なんかホリプロの公演情報が削除されていたので、代わりに情報サイトのを貼ります。消すの早すぎだろ)

enterstage.jp

 

 

ネットでは「観てから一週間、悶々としてブログが書けなかった」だの「ショックを受けすぎて悪夢を見た」だの、およそミュージカルを観たとは思えない感想がそこかしこにある本作。
私も例外ではなく、「終わったらカフェでスイーツ食ーべよ☆」とか考えていたのに、劇場を出るときには固形物が喉を通らないテンションになっていた。物販でパンフレットとサントラを買う気力もなかったくらいだ(パンフを買いそこねたのは今でも後悔している)

 (↓観劇直後のツイート抜粋)

 

 

 

(以下、作品のネタバレあり。)

 

 

 

  

「パレード」は、1913年にアメリカのアトランタで実際に起きた少女暴行殺人と冤罪事件を題材にとっている。ユダヤ人実業家のレオ・フランクが無実の罪に落とされる過程と、妻とともにその濡れ衣を晴らそうと奮闘するのがストーリーの中心だ。

(↓画像は荒いが、死体の写真があるので注意)
レオ・フランク事件 - Wikipedia

 

 

ミュージカル「パレード」が素晴らしいのは、レオ・フランクを単なる冤罪被害者とは扱わず、アトランタの人々もレオを恐れ盲目的に攻撃するただの愚かな民衆とはしなかったところだ。

 

たとえば、プロローグ。幕が開くと大木の下にひとり青年が佇んでいる。メインストーリーの約50年前、南北戦争に出生していく男の独唱から、この物語は始まる。時は流れ、南軍戦没者記念のパレードで、人々が青年と同じ歌を歌う。左足を失い傷痍兵となったかつての青年とアトランタ市民が、かつてののどかで純朴な暮らしを懐かしみ、「我々はまだ負けていない。故郷のためなら再び行進曲を歌う」と叫ぶ。南部の人々が持つ故郷への強い愛着と、その裏にある北部への憎しみをいやおうなしに感じるシーンだ。

その日、パレードに浮かれる人々の脇を、北部で生まれ育ったユダヤ人、レオ・フランクがすり抜けていく。「ここの人たちには馴染めない。動物園みたいだ。アトランタを故郷とは思えない、北部に帰りたい。南部育ちの妻もユダヤ人らしくない……」と心中でつぶやきながら。

 

この時点で、南部はただの加害者ではなく、レオもただの被害者ではない。互いが互いを差別しあってしまっていることが、序盤でこれでもかと描写されている。

 

トーリーが進むと、ただの悪徳検事かと思われたドーシー検事も、アトランタの人心の安定を考えて証拠の捏造不適切な手法をとっていることが判明するし、裁判官も「早すぎる変化は混乱を招く(から、ユダヤ人のスケープゴートは妥当)」と言うし、黒人奴隷使用人たちは「殺されたのが黒人だったらこんなに騒がれなかったろうにな」と自虐をはじめる。

みんな、事情があるのだ。事情があるとわかってしまうと、神の視点に居る観客すらどの登場人物にも「お前が悪い」と糾弾できなくなってしまう。それなのに目の前で事態はどんどん酷くなっていき、何もできないことに神経がすり減っていく。

 

神の視点にいてなによりも恐ろしいのは、レオに絞首刑が言い渡される原因をつくった人たちは大半が愚かさと軽率さと、そして善意で行動しているのがわかることだった。
ソースの怪しい情報をまき散らして金を稼ぐマスコミ、暴走した復讐心から嘘の証言をする少年、又聞きの又聞きを自分の体験として話す少女、それを頭からうのみにして憎しみを募らせる市民たち……。

 

 

まって、これめっちゃ見たことある。Twitterとかニュースとかで何回も見たことある。
まって、これは昔の外国の話のはずなのに。
これ、私たちのいる現実の話だっけ?
いままさに、私が暮らしているこの国の話だっけ???

 

 

……私が観劇後、どうしてあんなに鬱なツイートを繰り返したかお判りいただけただろうか。
文字で読んでも十分正気が削れるが、より質の悪いことにこれはミュージカルだった。
音楽と照明とダンス、そして劇場という閉鎖空間は、人間の論理を飛び越えてダイレクトに感情へのアクセスを可能にする。論理レベルでも十分辛いのに、感情にまで恐怖や悲しみや混乱を直打ちされたら多少気がおかしくなっても仕方がないだろう。

森新太郎氏が演出した作品を観るのはこれがはじめてだし、演出技術には私は明るくないが、容赦なく観客を没入させて負の感情をVR体験させるのが非常にうまいと理解した。死ぬかと、いや、死にたいと思わされた。
感覚としてはホラー映画に近い。自宅者の恐怖映画を観たあと、静かな自宅にひとりでいるのはなんとなく気が引けるだろう。一晩友だちの家に泊めてもらおうか、とか考えるはずだ。だが残念なことにパレードの恐怖の対象は社会だった。一生身をゆだねなければならないものが、想像以上に信用ならないという感覚を強く植え付けられたのだ。生きていくことに本気で苦痛を感じた。

 

パレードに限らず、トニー賞受賞作は社会問題をテーマに扱う作品が多い。アカデミー賞と同様、楽しいだけの作品は賞を取りづらいシステムになっているオペラ座の怪人とかは頭が軽い方の作品だと思う)
しかし、ミュージカルは映画以上に「娯楽」要素の期待値が高い。たいていの作品は、楽しくキラキラした衣の中に重いテーマを織り込んで訴える手法をとる。どんな傑作でも興行が伸びないとノミネートもされないからだ。だからふつうは、決して、最初から最後まで重油を飲ませるような真似はしない。その点でパレードは完全に異形だ。初演のスポンサーはマジの篤志家か、さもなくば暗い話が大好きだったに違いない。変態め。ありがとう。

 

クソ重い傑作と、腕のある演出家と、ガチの俳優陣ががっぷり四つに組んだ結果、2017年5-6月の東京芸術劇場(そして大阪と名古屋)には濃縮された地獄が生み出された。楽しいひとときを期待して足を踏み入れた観客は、三時間後、目のハイライトを失ってふらふらと出ていく。
しかし外の世界は、先ほどまでステージでカリカチュアされていた地獄そのもの。気が紛れようがない。Twitterとか間違っても見られない。頭の中にはステージの情景が何度もリピートする。
空想にも、現実にも、逃げられない……。

 

これがおそらくパレードという作品と、森新太郎氏の演出の狙いだったのだろうと思う。人間は痛い目に会えば学ぶ。逃げ場がないならなおさらだ。
たとえ深く考える強さがなかったとしても、似たような事態に直面したときにひっかかる棘の役割くらいは果たしてくれる。
いつもなら反射でリツイートしていた指が、止まるかもしれない。無責任に恐怖をあおる報道に、眉をひそめて目をそらせるかもしれない。自分の心にあった醜い思いこみに気づくかもしれない。

 

私がパレードの精神腹パンをくらってから三週間、いまのところの結論はこうだ。
軽率な善意が暴走して悲惨な結果を招かないようにするには、ひとりひとりが……すなわちまず自分が、ごく地味な自制と自省を続ける以外にない。他人と協力したい、自分が間違っていないと言ってほしいと思った瞬間に、暴走のレールは敷かれはじめる。(もちろん、いずれは暴走を制御しながら周りと協力できるようになるのがベストだ。だが、いきなりやる必要はない。危ない)
地味な努力の報酬は、自分が死ぬときに「まあ、やれるだけやったと思う……たぶん」みたいなささやかすぎる自己満足があるだけだ。それでも、善意で誰かを轢き殺すよりはだいぶマシだと、私は思う。他人が石を投げるのを止められないからといって、自分も石を投げていいということにはならないのだ。

 

 

 

 

余談

『パレードを観た人たちが、異口同音に絶賛しながら(劇中のアトランタ市民と同じように)大きな渦に巻き込まれて行ってるように見えたのが一番怖かった』
という趣旨のツイートをみかけた。

まさに!と膝を打った。上で述べたように、観劇中私たちが主に感じていたのは恐怖と混乱であり、それは当時のアトランタ市民と同じ感情といえる。怯えて迷う人間はどのような行動に出るかというと、仲間を見つけ、団結しようとする。可能ならば敵を見つけて排除しようとするだろう。
さすがにパレードを観た直後に攻撃行動をとれるほど愚かな人は見かけなかったが、あからさまなアンチがいたりしたら……石を投げ始めたかもしれないね。