ハリハリのブログ

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映画「ドリーム」感想とか考えたこととか

映画「ドリーム」見てきました。

 

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映画『ドリーム』オフィシャルサイト - 20世紀フォックス

1962年に米国人として初めて地球周回軌道を飛行した宇宙飛行士ジョン・グレンの功績を影で支えた、NASAの3人の黒人系女性スタッフ、キャサリン・ジョンソン、ドロシー・ボーン、メアリー・ジャクソンの知られざる物語を描いたドラマ。ソ連とアメリカの宇宙開発競争が繰り広げられていた61年、米バージニア州ハンプトンにあるNASAのラングレー研究所に、ロケットの打ち上げに必要不可欠な計算を行う黒人女性グループがいた。なかでも天才的な数学の才能をもつキャサリンは、宇宙特別研究本部の計算係に抜てきされるが、白人男性ばかりのオフィス環境は、キャサリンにとって決して心地よいものではなかった。一方、ドロシーとメアリーもそれぞれ、黒人であるというだけで理不尽な境遇に立たされるが、それでも3人はひたむきに夢を追い続け、やがてNASAの歴史的な偉業に携わることとなる。

ドリーム : 作品情報 - 映画.com

 


良い映画でした。面白かったです。そして、うまいこと一言で「こういう映画でした!」って言えないかんじです。
巷では「才能ある女性たちの痛快な云々~」と喧伝されてますがそういう映画かって考えるとちょっと首をかしげる
素晴らしいところや考えることはいっぱいあったので、とくに構成せずに書き散らしていきたいと思います(いつもそうじゃねーか)。ネタバレあります!
感想というよりは、見て考えたことの羅列です。

 

誰も差別解消になんて興味ない

この映画がとても正直だなと感じたのは、白人キャラのほとんどは差別解消に興味をもっていないという点です。

キャサリンの上司ハリソンは彼女の才能を認め、不便な状況の解決に積極的に動きはしましたが、彼はキャサリンの能力をフルに使いたかっただけであって黒人女性差別をなくしたいわけではありません。キャサリンに与えたありとあらゆる例外は、ソ連に先を越されて自分の進退と夢とアメリカの安全が危ねえという焦燥感がもたらしたものです。キャサリンの頭脳を一分一秒でも絞り切りたかっただけです。心は月に行ってる、なんて言っちゃうようなロマンチストではありますので、トイレ問題について聞いたときいよいよ心底情けない気分になったというのもあるでしょうが。
自らハンマーを振るって「非白人トイレ」の看板をぶっ壊したのはスカッとするシーンですが、そんだけケツに火がついてたということでしょう。少なくともIBMよりはキャサリンをあの時点で貴重だと感じてたのは間違いないようですが。
計算係が不要になって担当を外さざるを得なくなったのが残念なのは本音でしょうが、あれも彼女の能力を手元に置いておきたかったのが一番大きいんじゃないかなあ。NASAの職務規約上、たぶん何かに引っかかって遺留できなかったんでしょう。(おそらく秘書が残留方法を調べさせられ、結局手立てがなかったと思われる。だから秘書がちょっと好意的だったのです)

ケツに火が付いた結果、キャサリンの才能を明確に認めざるを得なくなった人物はもう一人います。
マーキュリー6号のパイロット、ジョン・グレン。搭乗時から黒人女性たちにも握手をしてあげるなど、いかにも偏見がなさそうなキャラとして登場した彼です。会議に参加するキャサリンにも嫌な顔一つ見せず(他のパイロットは多かれ少なかれ渋面を作っていた)、数字を導き出すたびに「いいね!」ボタンをおしてくれる。……でも、それだけだったと感じます。
記者会見のシーンで顕著なように、彼はひょうきん者で場の空気(あのタイミングでは、ソ連に宇宙開発競争で負けて最終的にミサイルとか撃たれるかもという恐怖)を明るくすることを旨としている節があります。だから、黒人女性が来るというイレギュラーがあっても会議を明るくやりたかった。だから、いいねボタンを押す。
しかし、いいねボタンの対象は常にキャサリンが導いた「数字」であってキャサリン本人ではありませんでした。そこがジョン・グレンの限界で、バランス感覚でした。本当に偏見がなく、差別を解消しようという気があるのなら「彼女はすごいね」と言わなければならないのです。けれどそれをやってしまうとNASAや政府のお偉方ににらまれてパイロットの順番を後回しにされるリスクがある。だから代わりに数字を褒める。……というのを無意識にやってたという描写だと私は感じました。
そんなグレンが最終的に名指しで(まあ名前は覚えてなくて「that girl」って言ってたけど)キャサリンを認めるに至ったのは、やっぱりケツに火がついていたからです。ケツに火っていうかロケット点火前っていうか。まあ要するに「数字が間違ってたら俺は死ぬ」という状況に至ってなりふり構っていられなくなったわけですね。

ハリソンとジョン・グレン、それぞれキャサリンを認めたのはまさにケツに火がついていたからだと私は思っています。ハリソンは自分のキャリアと夢が、ジョン・グレンは直球で生死が、キャサリンの頭脳にかかっていました。そういう状況下であれば肌が白かろうが黒かろうがペニスがついていようがいまいが関係ねえ!!ってなるのはまあ当然です。でも、これだけなら、溺れる者が藁をつかんだだけ。
ふたりとも黒人差別にも女性差別にも興味はなかった。でも、それを放っておくと自分が落とし穴にはまることを思い知った。ならば、これからどうする?って考えられるかどうかが、まさに人間性と知性を問われるところなわけで。
ハリソンはポールに「天才を導かなあかんぞ(こっちまで来れなさそうなら道をつくるんやぞ)」と言い含め、ジョン・グレンは地球に帰ってきてからも「彼女にお礼を」と通信を入れました。
痛い目を見たのに過ちを放置するのは馬鹿のすることですからね。

 

差別を解消しようとすることは、誰かを不快にさせること

この映画は差別を解消するための行動が誰かを不快にするというのをはっきりと描いているのが素晴らしいと思っています。
ドロシーとミッチェルのやりとりに顕著ですが、たとえば正当な昇格・昇給を求めたり、教育の手段を求めたり、いっしょのコーヒーサーバーを使おうとしたりすると白人が眉をひそめる。場合によっては、同じ黒人の家族にも不快感を表明される。

まあ、そりゃそうなんですよ。昨日まで汚いもの扱いしてた人が同じ水飲み場使ったら嫌だし、自分が関係ないルール改定のために書類をつくるの面倒だし、規則つくったの自分じゃないのに詰められるし、「理不尽だ!波風立てやがって!」って感じるのはそりゃそうだよねって話で。
基本的に差別してる側ってその意識がないので、被差別者が平等な扱いを求め始めたら「面倒くせえな、わがまま言うんじゃねえよ」ってなるの当然なんですよ。もしくは「私悪いことしてないのに怒ってる…怖い…」みたいな被害者意識になるか。客観的にとらえなおして「あ、ごめん。直すわ」って言えるのはかなりの知性とモラルを備えてないと無理。たぶん全人類の8%くらいしかできない。
だからもう、差別解消するなら誰かを不快にすることは避けられない、くらいに思っておいたほうがいいのだろうなと改めて感じました。目の前の人を不快にしてでも、貫きたい正しさや欲求があるなら仕方ない。一回乗り越えたら次の世代は双方楽になるし。

……ここまで考えて、差別解消と日本人的倫理観の相性の悪さに絶望を覚えましたよね。日本の道徳でいう「和」とか「他人に迷惑をかけない」とかって周りの人を不快にさせないことが要件に入ってるから……。そして和は公正さよりも日本では優先されるから……。うっわあ。

 

勲章よりも人間扱いを

子どもの誕生パーティで、ジムがキャサリンに「謝らせてほしい」と言ってからの一連のシーンが大変好きです。
ジムが何を言ってもキャサリンが「uh huh」って塩対応し続けるのが面白くてですね。キャサリンがすぐにネタばらしをしてるんですが、ジムは謝らせてほしいという口実でキャサリンをダンスに誘ったのにsorryって言わずに口説き始めたんですよ。それは順番が違うだろ、っていう「uh huh」です。
この映画、白人が黒人にニグロって言ったりcoloredって言うシーンはほぼないんですが、「女なのに」「男じゃないから」って言葉はみんなホイホイ使うんですよね。男女差別はまだぜんぜんオッケーだったことがうかがえます。
(わかりやすいのはメアリーが技術職への申請をミッチェルから断られるシーン。ミッチェルが最初に言う理由は「技術職は男だけ」でした。学識要件を満たしていないというまっとうな理由があるのに、それを言わずに「女だから」で通ると認識しているわけですね)
話を戻しますと、キャサリンの「uh huh」は「私を口説く(女扱いする)前に、謝る(対等な人間扱いをする)のが先でしょ」という意味です。だからちゃんと謝ったらちゃんと口説かれる。

黒人女性を対等な人間扱いしてないシーンはこの映画には山ほどありますが、一番笑ったのはキャサリンに検算を頼むため、データを持ってサムが西館へダッシュするシーン。
電話ねえのかよ、って思ったよね。
史実のNASAではどうだったかわかりませんが、あの映画内での非白人計算室には電話が通ってないのはほぼ確実。なんで通してないんだよめっちゃ不便だろって話なんですが、要するに言葉を話せる家畜扱いから黒人が脱してないってことですよね。そのせいで白人男性が半マイルを往復ダッシュするはめになるわけですが。(電話があればキャサリンがダッシュするだけで済んだ)
同じ敷地内にいる人を平等に対等な人間扱いしないと痛い目を見るよ、という教訓がここにも表れています。

象徴的なのはラストシーン。キャサリンと対立し続けたポールが、残業をしている彼女にコーヒーを手渡す。本当になんてことがない親切なのに、ここに至るまですごい葛藤があったことを観客は知っているわけで。
いっしょに観に行った友人が「なんでラストカットがキャサリンの名前がついた研究所(Katherine G. Johnson Computational Research Facility)の看板じゃないんだ?」と言っていましたが、その理由は明白。勲章をもらうより、自分の名前がついた研究所を作ってもらうより、同僚がみんな対等に扱われる世界をつくって維持するほうが難しいからです。


資本主義の前提としての差別解消

今なお差別はバリバリ残っているものの、50年前まで分離政策を維持していた州がある中でよくアメリカここまで頑張ってきたなというのを感じた映画でした。
しかし考えてみれば差別解消って資本主義の大前提みたいなところありますし、当然と言えば当然なのかもしれません。(ちゃんとそういうところに目を配ったり勉強した方には自明でしょうし、ちょっと今更気づいたの恥ずかしくはあるのですが)

資本主義というのは要するに競争原理をもとに社会を回していこうぜ!という考え方です。みんなが競争してよりよいものをつくったり高い能力を身につけたりして社会に貢献し、貢献度の高い人が金銭というかたちでより多く報われる。それが資本主義のざっくりしたルールです。(他にもいろいろありますが今回はここが大事)
重要なのは競争が適正に行われること。要するに、みんなが本気を出せるルールであることです。さらに、参加者が多ければ多いほど良い。たくさんの人が参加するほど、ピラミッドの頂点は高くなるのです。
もしもルールが一部の人(たとえば白人男性)だけに有利だったら、優遇された人はさぼりますし不利な人はやる気をなくします。人種や性別によって教育機会やキャリアアップではじかれれれば参加者が減り、必然的に競争はぬるくなってしまいます。社会が向上していきません。放っておくと資本主義の根本がシロアリに食い荒らされたごとくぼろっぼろになります。
だから差別解消は常に推進されなければいけません。スポーツがルールの公正な運用を前提としているように、資本主義は漸進的に差別がなくなっていくことを前提に存在しています。
言いきっちゃいますが、差別主義者は資本主義の敵です。別の主義をつくってそっちでやってくれって感じです。

 

 

「私のためのトイレがない」人は今日も隣にいる

中盤でキャサリンが「半マイル先にしか私が使えるトイレがない!」とキレるシーンは印象的です。
被災地などで真っ先に問題になるように、排泄がちゃんとできるかどうかは人間のストレス度に直結します。災害ならばまだ我慢と諦めもつきますが、これが日常なのはたまったもんじゃない。
しかし恐ろしいことに、職場でトイレを使えない人はまだまだ一定数いるのです。この日本にも。

パッと浮かぶのは身体障害者でしょう。多目的トイレがない職場では物理的に働けない。わかりやすいですね。
わかりづらい人たちもいます。たとえばトランスジェンダー性自認と逆のトイレに入らされるストレスはかなりのものらしく(私は経験がないので想像しかできないですが)、自宅外でトイレが使えない方は多いそうです。かといってカミングアウトしていないなら多目的トイレも使いづらい。……トイレはあるけど使えるトイレが、ない。

映画を観ている最中も心配だったのですが、体が女性の場合は月一で生理がくるんですよ。トイレに行かなきゃならない頻度があがるんですよ。当時のアメリカですでに働く女性はタンポン派が多かったようなのでキャサリンもそうだと仮定しますともう一つ怖いことがありましてね。トキシック・ショック症候群という、要はタンポンを適切な時間内に取り換えないと最悪死ぬっていうやつなんですが。慢性的に長時間勤務だと怖いなーと思いながら見てました。

まあ、何が言いたいかっていうとトイレがちゃんと使えないってのはかなり人権が危ういってことと、キャサリン状態の人が隣の席に座ってるかもしれないってことです。

 

 

 

……ざっと思いつくのはこれくらいでしょうか。
異様に上映館が少ないですが本当にいい映画なので、万が一観てなくてここまで読んじゃった方はぜひシアターへ!

 

 


余談

NASAの会議室や偉い人のオフィスにケネディの顔写真が掲げられてるカットが映るたびに「すごい!全体主義国家みたい!」と思った。