魔女を好む男~実写版「美女と野獣」 ガストン考
実写版美女と野獣では、キャラクター造形もアニメ版から様々な改変が加わった。
野獣は教養の高い王子に。モーリスは発明家から芸術家に。ル・フウはひょうきんながら冷静さのある男に。
ベルは全体的に「ぅゎっょぃ」というかんじに。
本作のヴィラン、ガストンも例外ではない。
ガストンの変更点はたくさんあったが、一番大きなところは「女の好み」だったと思う。
アニメ版ではガストンがベルを口説く理由は彼女が村一番の美人だから、でそれ以上の理由はない。要するに基準は顔で、中身を見ないことが彼の罪だった。
では、実写版ガストンはどのような女に惹かれるのか。そのヒントは彼が女を口説くことをハンティングに例えていることから類推できる。
ベルにふられて不貞腐れるガストンにル・フウが「ほかにも女の子はいるじゃない」というと、ガストンは次のように答える。
Gaston: A great hunter doesn't waste his time with rabbits.
ガストン:腕のいいハンターはウサギを追いかけたりしないんだ
(引用元:http://www.imdb.com/title/tt2771200/quotes 訳はハリハリ)
ここでガストンがウサギに例えているのは村の三人娘である。
お洒落で女らしい振る舞いができる彼女たちは、おそらく村内でかなりランクの高い女子だ(着飾れる=実家に金がある、なので結婚相手としての価値も高い)。それをガストンはつまらない獲物呼ばわりしている。
さて、ハンティングの楽しさとは何だろう。強く賢く粘り強い、挑みがいのある獲物を追いつめて仕留める、そのプロセスではないだろうか。ガストンは難しそうな相手を追いかけて落とすことを楽しみたいのであって、向こうから「抱いて♡」と寄ってくる女はお呼びじゃないのである。
ゆえに村内でもっとも難攻不落な女、ベルはガストンのお眼鏡にかなってしまった。
ガストンが好む女のパターンは作中でもう一つ示されている。
それは、「未亡人」だ。
モーリスにキレたガストンがル・フウになだめられるシーンで、次のようなやり取りがある。
LeFou: [tries to stops him] Gaston! Stop it. Breathe, think of happy thoughts, go back to the war, bloods, explosions, countless widows.
Gaston: Widows?ル・フウ: (ガストンをなだめようと)ガストン!落ち着いて。深呼吸して、楽しいこと考えよう。戦争にまた行くとか、血しぶき、爆発、たくさんの未亡人
ガストン:未亡人?
(引用元:http://www.imdb.com/title/tt2771200/quotes 訳はハリハリ)
未亡人もまた、追いかけがいのある獲物になりやすい存在だ。なくした夫を愛していればいるほど難易度は上がる。そこを半ば無理やり口説き落とすのが面白かったのではないかというのは、深読みのしすぎだろうか。
それにしても、ガストンの「未亡人?」の言い方がめっちゃ嬉しそうで気持ち悪いんだ……。邪悪な理由で未亡人が好きなんだなというのがありありとわかる表情。ルーク・エヴァンズみたいなイケメンがああいう顔をしているとまじで怖い。
ベルと未亡人、ガストンが好む女にはもう一つ特徴がある。社会的立場が非常に弱いということだ。未亡人は言うまでもないし、ベルも村では新参者で、父親がいなくなれば完全に後ろ盾をなくしてしまう(ガストンが言い放ったとおりに)。
そんな彼女たちがガストンの妻になったらどうなるか。家に閉じ込められ、ノーということは決して許されないまま、ガストンの所有物として一生を終えるのは想像にかたくない(女を閉じ込めようとする男という点で、野獣とガストンは鏡合わせなのだ。ジャン=コクトー版の映画ではよりわかりやすく描かれているが)。
これが三人娘のように実家が安定しているとガストンもあからさまな虐待は控えざるを得ないが、庇護者のいない女にその心配は無用だ。
手ごわかった獲物も、仕留められてしまえば物言わぬ剥製になり下がる。暖炉の上に飾られて自慢の種になる運命だ。
そういえばガストンは終盤、野獣の首を剥製にすると言っていた。生きた剥製のベルと野獣の剥製を両方飾ろうとは、なかなかいい趣味をしている。
少し話はそれるが、実写版での大きな変更点に追加キャラクター「アガット」の存在がある。彼女は未亡人で、物乞いをしながら村のはずれで暮らしている。そう、未亡人だ。そしてその正体は、野獣たちと城に呪いをかけた魔女だった。
つまり実写版においては未亡人=アガット=魔女の図式が間接的に成り立つ。
ヒロインであるベルにも目を向けてみよう。彼女は賢く、読書家であり、村中から変わり者あつかいされていて、村の有力な男(校長やガストン)に従わない。
……深読みを承知で言うが、中世の魔女狩りの対象にそこそこ合致する(未亡人はど真ん中だ)。実写版では洗濯機まで発明して村を軽く混乱させたのでますます魔女っぽい。ベル≒魔女という図式も成り立ちそうだ。
言いたいことはお分かりいただけるだろうか。
ガストンの好む女は活きのいい、素敵な剥製になってくれそうな獲物であると同時に、魔女の素質をもつ女性でもあるのだ。
そんなガストンの最期が魔女が呪いをかけた城の崩落によるものだったというのは、なかなか趣深いように思える。
余談
吹き替え版では「たくさんの未亡人」が「たくさんの女の子」というセリフになっている。ぜんっぜん意味が変わっちまうじゃねえか!と私は劇場でひそかにキレていた。
未亡人という単語が差別的であり、「寡婦」では聞き取れないというあたりが理由かと推測するが、キャラクター性をゆがめてまでポリコレを守る必要はどこに、と頭を抱える。ポジティブな意味で使っていたならともかく、侮蔑的なニュアンスで未亡人って言ってたんだからむしろそのまま使うべきでは……。
女性と怒りについて~実写版美女と野獣を観て
アニメ版のときからフェミニズム路線だった美女と野獣は、実写版になってそのフェミニズム観を2017年流にアップデートしてきている。
なかでも私は♪Bell(reprise)でベルが「 Madam Gaston,his little wife? UUUUGH!(#゚Д゚)」と怒りをあらわにしたことにとても驚いた。
(動画00:20あたり)
映画を未見の方のためにこの曲の直前のシーンについて説明する。
ベルは村の人気者であるガストンからプロポーズを受けたが容赦なく断った。するとガストンは、「父親や夫に守ってもらえない女の行く末は物乞いだぞ。そんなふうにならないように、村で浮いているお前を俺が嫁にもらってやる」という趣旨の、侮辱的なセリフ(たぶん本人はそんなつもりはない)でベルを口説き落とそうとした。
そういう経緯があってからの、UUUUGH!(#゚Д゚)である。そりゃ怒るわ、どんだけ上から目線だよ。
アニメ版およびミュージカル版での同シーンは呆れや嫌悪がどちらかというと前面にでていたが、実写ベルは完全に怒っている(まあアニメ版も桶蹴ってるからイラついてはいたんだろうけど)。物を壊したり誰かを怒鳴ったりはせず、せいぜい鶏のエサを乱暴に撒いて丘に駆け出すくらいの温厚なキレ方だが、UUUUGH!はヒロインとは思えぬ汚い低音で怒りのほどがうかがえる。あの叫びにこめられた感情は「っざけんなクソが、死ね!」あたりではないだろうか。
映画館で聴いたときの率直な感想言っていい?「ディズニーじゃなかったら中指立ててたな」
ディズニーは今回はっきりと「失礼なことを言われたら女の子でもキレていい」と表現してきたととらえられる。怒りをあらわにするヒロインはこれまでにもいたが、義憤でないかぎりはちょっとした不機嫌くらいのもので、個人的なことでキレるのは珍しい。とても新鮮だった。
このシーンが琴線にひっかかったのは、私の個人的な体験とオーバーラップしたせいもある。
数年前に彼氏(現夫)と同棲をはじめたころ、友人を数人招いたことがあった。お土産に持ってきていただいたのはピース売りのケーキ数種。案の定、誰が最初に選ぶのかでお見合い状態になり、無駄な膠着状態が好きではない私はこう口火を切った。「じゃあ”家主特権”でマスカットのやつもらいまーす!」
すると友人の一人が、心底不思議そうに首をかしげてつぶやいた。
「……家主?」と。
どう好意的に解釈しても、「家主は彼氏の方でハリハリさんは違うよね?」という意味にしかとれなかった。
失礼な話だ。しかし、ショックだったのは失礼なことを言われたせいではない。
それが失礼なことで、腹を立てていいのだと即座に判断ができなかったのが何よりも私を打ちのめした。
我が家では生活費を収入按分で折半しているが、そこそこ収入に差のあった当時は彼氏が家賃をすべて持っていた。そのせいで、一瞬だが私の心に疑念がわいてしまった。
「あれ、私って家主を名乗っちゃダメなのかな……?」
それで、怒りそこねてしまった。腹が立ったのを理性で押さえたのならそれは褒められるべきことだが、怒ってもいいかを見極められなかったのはただの未熟だ。私が私自身を守りそこねただけだった。
私以外は誰も覚えていないだろうこの件は、私の中でひそかに尾を引いた。
自尊心は防具だ。きちんと装備していないと不意打ちの侮辱や偏見をフルダメージで食らい、防具をつけられるような体力がもどるのに時間がかかる。
今年になって新居へ引っ越してからも、私はこの家の所有者であると最近まで確信ができなかった。購入代金の支払いは夫がしているから、無意識のうちに『家主だと思ってはいけない』という気がしていた。
あまりにも変にモヤモヤしたので記憶を掘り起こしてみたら、上記の事件を思い出したというわけだ。
思い出して3日後に美女と野獣を観に行ったものだから、ちゃんと怒ることができるベルはとても輝いて見えた。男も女も、怒るべき時に怒れないのは不健全だと心から思う。
余談1
惚気です。
夫に家主事件のことを事実部分だけ(友人がつぶやいたところまで)話してみたところ、「え、ハリハリも家主だよ。二人の力で生活してるんだし」と即座に回答されてすごくほっとした。
さらに「いまはたまたま俺の方が収入があるだけで、病気したりしたらハリハリに頼りきりになるかもしれないしさ。どっちが、って話じゃないよ」という微妙に悲観的かつ合理的な考えを話してくれた。ぶっちゃけちょっと惚れ直した。
余談2
ミュージカル版の美女と野獣を観てると、ちょいちょい流れる「Home」のインストにそわそわするよね。
管理運用できないものは捨てる~ハリハリ流整理術
新居での暮らしもだいぶ落ち着いて、いよいよ私室の収納をきちんとしたくなってきた。
これまではとりあえずリビングとキッチンを使いやすくするのにいっぱいいっぱいだったんだよ……。まだ可愛い食器棚は手に入ってないので折を見て買いたい。ちょっといいグラスとかを半分インテリアみたいに見せ収納したいんだ。
おそらく私は女性かつオタクであるにしては、所有物が少ない方だと思う。買い物はそれなりにするのだが、同じくらいの量を思い切りよく捨てるからだ。
私は物を捨てるのが好きだ。自由になれる気がする。
せっかくなので、私なりの断捨離法を書いてみようと思う。
手順1.持っているものを手に取る
部屋の隅から隅まで、あるものをすべて手に取る。
このタイミングで持ち物をかんたんにメモしておくと、終わったときに自分がどれほど物を所有しているか一目瞭然になる。めまいがすること請け合いだ。
(今回の引っ越しにあたり私もやってみたが、200品くらいあった。ちなみに書籍等はひとまとまりなので、おそらく本気で一品一品数えたら300品くらいはあると思う)
(↑書き出した所有物リストの一部)
手順2.捨てるかどうかを決める
捨てるべきものはざっくり言うと、「使っていないもの」と「使いたくないもの」だ。
(1).使っていないもの
某片付けコンサルタントのように「ときめく?」と自分に問いかける必要はないが、そのかわり「いつ使う(着る)?」と問いかけよう。ある意味トキメキよりも残酷な問いかけだが、必要なことだ。
極端な話、季節ものや冠婚葬祭用品のように使用タイミングがはっきりしているものを除いて、普段使いしていない物品はすべて捨ててしまってもあまり問題はない。「いつか」使うものはゴミとみなす。
考えてみてほしい。使わないものは実質存在していないのと同じだ。モノは所有しているだけでは価値を引き出せない。スペースを食い、部屋を雑然とさせ、必要なもののありかをわからなくさせ、衛生面すら危なくさせる。ゴミよりも始末が悪い。
使わないものは、捨てよう。いくら高かったものでも。もらい物であっても。どうしても無理なら人にあげよう。特に服は寄付団体が結構あるぞ。
ただし、何事にも例外はある。
私の感覚としては、以下の場合は必ずしも捨てなくていいと思う。
- 入手してから一年以内のもの。まだ価値を自分が理解できていない可能性がそこそこ見込めるため
- 思い出の品。ただしガチなものに限る。チケットの半券とか写真とかはアルバムに収めたりして見返しやすい(=使える)状態にしよう。
- 書籍・CD・DVD。省スペースかつ、本棚などに並べれば管理もしやすいので他のものよりも取っておくリスクは低め。でも五年くらい読み返してないやつは希少本以外捨ててもいいんじゃないかな……図書館が近くにあるかにもよるけど。
- 飾り物。別に住居を殺風景にする必要はない。ただし、家主や来客の心を和ませるという機能が果たせていないならやっぱり使えていないので捨てたほうがいい。
(2)使いたくないもの
オリジナリティがなくて申し訳ないが、やっぱり「ときめかない」ものは某コンサルタントの言う通り手放した方がいい。
「使いたくない」ものは使えるものでも捨てよう。
まだ着られそうでも、自分的にもうしっくりこない服とかは捨てたほうが精神衛生に良い。
個人的な体験だが、「使いたいかどうか」で捨てる癖をつけると自分の中の好悪にかなり鋭敏になって、結果的に要らないものを買う率が減る。機能は満たしているけれど好きじゃないもの(結局使わなくなる)を最初から買わなくなるのだ。
以上の手順1、2を部屋にあるものすべてに実行したら、捨てる工程は終了。
捨てるのが終われば、自分が何を持っているかの把握と、なぜ片付かないかの理解もだいたい済んでいるはずだ。なんか妙に取り出しにくいエリアがあるとか、化粧品が三か所くらいにちらばってるとか、ジャケットだけ10枚くらいあるとか。
あとは片付かない理由を解消するだけだ。一つ一つの問題に対する対処法はググればいくらでも出てくるから、好きに整理をつければいいと思う。
使わないモノのない生活はいいぞ。
余談
このような考え方でいくと、実はkindleのような電子書籍はあまり私の好みではない。スペースの限界がなく、読み返すかどうかの判断を要さずにだらだらと所有し続けられてしまうのはどうにも収まりが悪い感じだ。まあ、ライブラリをろくに整理していないせいもあるんだけど。今度ちゃんと↓あたりを参考に整理してみようと思う。
まったく同じ理由で、職場のファイルサーバの中身とかも嫌いです。自分で勝手に整理できないから一番嫌いかも。
顔を見て話ができなかった頃とやっぱりできない今について
下記ツイートに触発された記事。
「ひとの目を見ながら会話できない」という状況も本人の性格や我儘などではなく、努力ではカバーすることができない、ひとつの症状。顔を見て話すと情報過多となり、脳が適切に処理できず、無理をしている状態だという。今夜の #Nスペ を見るまで、このことを知らなかった。知って良かったと思う。
— 村山嘉昭 (@_murayama) 2017年5月21日
Nスペで放送された発達障害特集で、特徴のひとつである「ひとの目を見ながら会話できない」についての感想のようです。
私が人の目を見て会話していないと気づいたのは、大学でミュージカルサークルでの稽古中。先輩から「目を見ないよね」と指摘されたときだった。
思えばたしかに人の顔を見ないことが多かった。別に見なくても理解に支障はないと感じていたし、むしろ見ないほうが頭に入る気がした。(このあたり、元ツイートでいうところの「情報過多」だったんじゃないかと思う)
しかし、目を見て話を聞くのがマナーだ。当時はいまよりも真面目で素直だった私は矯正せねばとがんばった。
そして気づいた。目を見るの、怖い。胸のあたりがざわざわして、かるく冷や汗がでる。息苦しい。貧血のように意識が遠のく気すらした。
見つめ合うと素直におしゃべりできないというのはこのことか。たぶんちがう。
そんなかんじでかなりの苦労はあったものの、一年くらい練習しているうちに通常会話では目を見られるようになった。相当辛かったけどな!もっとつらい人だったらひきこもりかねないぞ!
……しかし、治ったという感覚すら錯覚だったと私はほどなく知ることになる。
治ってはいないとわかったのは、就職活動をはじめたときだ。具体的には、インターンシップで名刺交換を学んだとき。
どうしても名刺に目がいってしまう。相手の顔に興味がもてない。まだ名刺の字面のほうが心惹かれるものがある。
そして、平気になったと思ったけど至近距離で顔を見るのはやっぱり怖かった。治せなかったのだ。今でも怖い。
結局、現在に至るまで私は人の目をまっすぐみて話はできない。会話を始めるときやよっぽど重要なときはあえて見つめたりもするが、基本的には相手の3メートル後方くらいに焦点をあわせて話している。
相手にとっては顔を見て話しているように見えて、こちらも情報過多で息苦しくならなくていい状態がこれだ。
(人によってはネクタイのあたりを見つめていたりするらしいが、私の場合は本人に焦点が当たってしまうと辛いので距離をずらすほうが向いている)
思えば、私が書く小説は大事な話をするときほど互いの顔を見ないシチュエーションが多い。並んで歩きながらとか、聞き手の背中に向かって話すとか。
本音を知られると死ぬキャラを推してるせいもあるだろうが、生産的な会話は顔を見ないほうがやりやすいと内心思っているのかもしれない。
……ところで、人の目をみて話すのが辛い人って全体の何パーセントくらいいるんだろうね。2割くらいいるんなら、もうマナーから外してしまった方が合理的ではないだろうか。
見つめ合うと素直におしゃべりできないなら、見つめ合わないほうがコミュニケーションはスムーズだ。
余談
私は趣味でTRPGをやっている。それもオフラインセッションだ(そのうちオンセもやってみたい)。
顔を付き合わせて延々5時間とか会話をする遊びなのに、なぜ趣味といえるレベルで楽しめているのか?
おそらく理由はこんなところだろう。
理由1.ゲーム進行に大事な情報は文字ベースで管理されるため、意外と顔を見る必要はない。
理由2.ゲーム中の会話にはほとんどすべて目的がある。最初の自己紹介ですら、名前とゲーム歴とかを伝えるという明確な意義があるので、表情の情報量はそんなに重要ではない。これが世間話に代表されるプリミティブな会話は「会話している」こと自体が目的なので、表情から読み取れる微妙な情報もかなり大事で……なんだその……つらい。
そんなわけで、人の目を見たくない人でもオフラインセッションでTRPGを楽しむことは可能だと思う。見れた方がどうしても好感度は高くなりやすいけど。
君が守った世界のために、僕は君の名を世界から消す
先日めでたくも基本ルールブックが冒険企画局から刊行された。
魔道書大戦RPG マギカロギア 基本ルールブック (Role&Roll RPG)
- 作者: 河嶋陶一朗,冒険企画局,トリゾー
- 出版社/メーカー: 新紀元社
- 発売日: 2017/03/29
- メディア: 大型本
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マギカロギアは、魔法使いになって世界を魔法災厄やヤバイ魔導書や悪い魔法使いから守るゲームだ。
君は修練をつんだ魔法使いなので、多少のことでは死ぬくらいで済むし、死んでも復活できる。
そのかわり、君をこの世界にとどめさせてくれている大切な人――たいていは魔法の使えないただの人間――が深い傷を心や体や人生に負ったり、最悪死んだりする。しかたない。魔法使いは世界に嫌われている。
魔法使いを世界にとどめてくれる人間はアンカーと呼ばれる。その名の通り、この世と魔法使いをつなぐ錨だ。
もしも、もしも魔法使いがアンカーをすべて失ってしまったらそのときは、魔法使いは世界から『消滅』する。
この世に最初からいなかったことになる。どんな記録も消えてしまうし、誰の記憶にも残らない。
魔法使いだけは少し例外で、消滅した魔法使いの記憶を一定期間はもっていることができる。しかしそれもじわじわと薄れていき、いつかは消える。
その猶予期間の間に、魔法使いたちは書物や研究記録から消えた魔法使いの名前を削除する。もし一行でも彼や彼女の名前が残っていたなら、その書物自体がどこかへ消えてしまうからだ(名前の部分だけ空白なんて不自然を、世界は許さない)。
積み上げてきた研究を無にしないために、無用な混乱を防ぐために、魔法使いは消えた同胞の名前を削り取っていく。
近年、魔法使いが消える原因の多くは禁書や書籍卿が引き起こした魔法災厄――世界の危機に立ち向かったときだ。
世界を守るために彼らは消え、残された者は世界のために彼らの名を消す。
……以上、ハリハリがマギカロギアでいちばん好きな世界設定をお届けしました。とてもエモいと思います。
独自解釈混じってるから、公式の世界観は基本ルールブックでご確認ください。
最新リプレイの哲学戦線も面白かったのでみんな読もうな!
マギカロギア リプレイ 哲学戦線 (Role&Roll Books)
- 作者: 河嶋陶一朗,冒険企画局,相変わらず
- 出版社/メーカー: 新紀元社
- 発売日: 2017/01/28
- メディア: 新書
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演劇におけるダブルキャストとレ・ミゼラブル
発端は、舞台版FateGOのキャスト発表。
主人公を公演ごとに女性(ぐだ子)と男性(ぐだ男)に切り替える(=ダブルキャスト)であることがわかったのだが、ダブルキャストという用語が2.5次元舞台勢に認知されていないことに驚いた。
ダブルキャストという単語の知名度が思った以上に低くて震えるなど。
— ハリハリ@ピカボ新刊はBOOTHに (@harimarin) 2017年5月19日
↑のツイートにはゲーム「ダブルキャスト」に関するリプが二つほどついて大変申し訳ない気持ちになるとともに、やっぱり舞台用語のほうの知名度低すぎではと思った。
- 出版社/メーカー: ソニー・コンピュータエンタテインメント
- 発売日: 1998/06/25
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興が乗って、ダブルキャストの説明と思うところの連投を開始。
以下、ツイートを貼りつつ補足とかを書いていきます。
ダブルキャスト
— ハリハリ@ピカボ新刊はBOOTHに (@harimarin) 2017年5月19日
①二人一役。演劇作品等で一つの役を二人で分けて演じること(幼少期→成人以降など)
②二人の役者が公演ごとに交代で一つの役を演じること(三人以上ならばトリプル〜)
③同名のアドベンチャーゲーム。バッドエンドが怖い。
②のダブルキャストが行われる理由は、(1)役者の疲労を抑え、長期公演を可能にする(2)リピーターを増やすため。役者の違いによるディテールの変化を観たい観客を複数回来させることができる。
— ハリハリ@ピカボ新刊はBOOTHに (@harimarin) 2017年5月19日
ちなみに長期公演のことをロングラン公演と言う。テストにでます。
ダブルキャストの役が多いほど、基本的にはリピーター回数が望める。例えばヒーローとヒロインの二役をそれぞれダブルキャストにした場合の組み合わせは4通りだが、ライバル役もダブルにしたなら8通りになる。
— ハリハリ@ピカボ新刊はBOOTHに (@harimarin) 2017年5月19日
この組み合わせ爆発をかなりエグく利用しているのが東宝系ミュージカル。↓のレミゼラブルのキャスト表を見てくれ。私は爆笑した。https://t.co/OTw3uxI1UA
— ハリハリ@ピカボ新刊はBOOTHに (@harimarin) 2017年5月19日
私がレミゼを観たのは十年前が最初で最後なのだけど、いつの間にかフィルタ機能が公式に実装されていた。適当に四役ほど選んだら一公演しか残らなかった。
— ハリハリ@ピカボ新刊はBOOTHに (@harimarin) 2017年5月19日
ちなみにダブルキャストの役は 9 役 ある。
帝国劇場 ミュージカル『レ・ミゼラブル』(プリンシパルキャスト スケジュール)
レ・ミゼラブルは2012年にヒュー・ジャックマン主演で映画化もされた名作ミュージカル。原作は同名のヴィクトル・ユーゴ―の長編小説。
15年超にわたる物語のためネームド登場人物が非常に多く、ミュージカル化に際して整理されたにもかかわらずプリンシパルキャスト(重要役)は9人。
当作品は東宝ミュージカルのドル箱で、1987年の日本初演以来しばしばロングラン公演を行っている。若手からベテランまで多数の人気俳優をキャスティングできることと、作品自体のファンが多いため毎回動員がすごい。
まあ、リピーターを動員する手法としては穏当な方かもしれない。ランダム入場グッズとかガチャとか握手券に比べると、観られるものと値段が確定しているだけ良心的といえる。
— ハリハリ@ピカボ新刊はBOOTHに (@harimarin) 2017年5月19日
安い席でチケット一枚5000円くらいするけどね。(私がソシャゲで課金できない理由はここにある。S席分のお金を払って推しが引けない可能性があるという意味がわからない)
— ハリハリ@ピカボ新刊はBOOTHに (@harimarin) 2017年5月19日
2017年現在、ミュージカルのチケットはS席13,000円~10,000くらいが相場。最近は前方中央付近の席についてはプレミアムシートあつかいで割増し料金になっていることも多い。
個人的には席の価値を値段に反映するのは良い流れだと思っている。
【クソ計算】
— ハリハリ@ピカボ新刊はBOOTHに (@harimarin) 2017年5月19日
レミゼ、9役がそれぞれトリプルキャストなので、組み合わせは19,683通りでした。
全組み合わせを消化しようとしたら、毎日マチソワ(二公演)やったとして、約27年かかる。
すべてB席(4000円)で通ったら7873万円の課金ですね。
携帯の電卓をつかってぽちぽち計算した。
東宝レミゼ製作スタッフの名誉のため補足すると、レミゼは15年にわたる物語なのですべての登場人物とからむのは主人公のバルジャンのみ。
よって、からみのあるキャラごとの組み合わせであればもう少し容易に全コンプリートできる。たぶん……。
あと実際には推しキャラとか推し役者を中心にチケット取りを考えるはずなので、見た目ほどひどいわけではないです。ひどいけど。
おわりに
この記事は、はてなブログのTwitter貼り付け機能のテストを兼ねています。ログ代わりに使えるかなーと期待して。
結論としては、リプでツリー形式にしてあるツイートは勝手に前後のツイートも埋め込まれてしまってめっちゃ使いづらかった。
すなおにTwitter自体の埋め込み機能使った方が楽ですね。
ブログをはじめた理由
ブログを立ち上げるのははじめてではない。
高校生のころにfc2ブログをつくり書くことがなくて止め、数年後に趣味のブログをやっぱりfc2でつくってそれはそこそこ続いたがだんだんしんどくなって更新がとまり、サーバをレンタルすることに憧れてWordpressに挑戦してデザインが難しすぎて投げ出し、アメブロに手を出してFacebookをさらにゆるふわにしたような空気感に殺されたりしてきた。
ゆえに、このブログもいつまで続くか私自身が大いに疑問である。
あと、はてなブログは下手なエントリをあげようものならどこからともなく怖い論客がやってきて手厳しいコメントで心を折に来るイメージがある。ちょっとわくわくするけどたぶん耐えられない。
さて、あいさつ代わりの当エントリの主題は「私がなぜこのブログをはじめたか」である。
結論から言えば、「私がナルシストだから」というのが答えだ。
現在私がまともに更新できているSNSはTwitterだけなのだが、ときおり観劇や映画の感想を連ツイしては延々それを読み返して悦に入っている。
更新が滞ってはいるが、過去にpixivに投稿した二次小説も読むとにこにこできる。
友人と萌え語りしたLINEも読み返すと楽しい。奴と話していると我ながら面白い主張がよく飛び出す。しかしLINEは読み返しに向かなすぎてしばしば哀しい気持ちになる。
ナルシストなのだ。
私は私の書いた文章が好きで、私の思想感情に興味があり、ゆえに自分の文章を読み返せる手段は広く多いほうがいい。そう思ったので、このブログを立ち上げてみた。
じゃあなんで公開ブログにしてんだよ、と思うかもしれないが、他人から褒められる手段も広く多い方がいいに決まってる。
まとめ
このブログは私が自分の書いた文章を読み返してにやにやするための場所です。