ハリハリのブログ

人に見せても良いと判断した思想感情を記録しておくための保管庫

供給は正義だ、供給こそは正義だ

小学生のころ、友だちのお母さんの知り合いの娘さんが出演しているという小劇団のミュージカルに連れて行ってもらったことがありました。高校生と大学生が主な構成メンバーで、今思えば技量も高かったわけではない(実際、その一年後には解散公演をしていた)ほんとうにただのアマチュア劇団でした。なのに、私はなんだかドはまりしてしまい、二日間の公演でもう一日見られると知るや自分の母親と友人の母親に頼み込んで楽日も観てしまいました。連日で同じ作品を観たのは、いまのところあれが最初で最後です。

劇団四季ファンだった母に連れられて少なくとも当時は日本最高レベルのミュージカルを何本も観てきていたのに、アマチュア劇団が演じたその作品は私を魅了していました。

 

話の筋としては、中世イギリスを舞台にした貴族の青年とジプシー娘の悲恋物語
ヒロインのジプシーが歌い踊るシーンがとにかく素敵で、観てから二週間くらいは思い返してはうっとりとして、家で真似をしながら歌い続けていました。
(あと、当て馬役の貴族娘のヤンデレ具合がすさまじく好みでした。視界が狭い感じがすごくよく出ていた)

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実は、いまでも歌えます。さすがに全曲は無理ですが、ヒロインのメインテーマと1幕終わりのカルテットは完全に覚えてしまいました。


ミュージカルオタでいちおう中高と吹奏楽をやっていたにもかかわらず、私はあまり音楽を耳だけで覚えるのが得意ではありません。そらで歌えるミュージカルナンバーは山ほどありますが、たいていはサントラを擦り切れるほど聞いているせいです。

あの日に観た作品のサントラを私は持っていません。会場で販売はしていたのですが、なにぶん小学生でしたので買えませんでした。かわりに何度も何度も頭の中で思い返し、何度も自分で歌っていました。十五年以上たっても、忘れられなくなるくらいに。
大学サークルで自分がつくったミュージカルナンバーすらそれなりに忘れているのに、二度観て聴いただけの曲をこれほど覚えているのは我ながらおかしな気分です。


話はそれますが、私は物心ついたころから創作・表現活動にささやかながらかかわりつづけてきました。小学生になってからエレクトーン、のちにピアノを習い始め、小学校のクラブ活動でマーチングバンドをやり、中学高校と吹奏楽部で演奏して、大学ではミュージカルをつくり、社会人になって合唱をやり、そしていまは同人小説書きとTRPGプレーヤーをしています。(ちょっと触れただけのジャンルを含めればもっといろいろあります)

楽しいこともたくさんありましたが、私が、とくに十代のころを思い返すと不幸だったのは、自分が認められる技量レベルをあまりにも高く置きすぎていたことでした。白状すれば、演奏会や発表会を「おもしろくない」と思いながらこなしていたのです。


おもしろくない、というのは自分にとってではありません(その側面もありましたが)。お客さんにとって、です。この程度のレベルの演奏はつまらないに違いない、家族や友人に義理で聴かせるのも申し訳ないくらいだ……。それが本音でした。だから、高校になってからは家族を演奏会に招待したことがありません。

だったらもっと努力すればよかったじゃないか、というのは正論ですが、そういう問題でもありませんでした。だって演奏は楽しかったんです。たとえさほど上手くなくても。自己満足のレベルで充足していたのでそれ以上頑張る理由はなく、けれどそこに他者を巻き込むのにはためらいがありました。発表会というものがなければ、私はもっと音楽や芝居をつくることを楽しめたかもしれない、という矛盾めいた気持ちがずっとあります。

受け手のいない表現活動でも表現活動足りえるのだろうか。もし成立するのなら、私は心からそれをやりたい。そう感じてきました。いま私が一番やりたいことは『人に見せない前提の舞踊』です。ただ自分の体を音楽に乗せて動かす、自分と対話するためだけのダンスが存在するならやりたい。鏡のないスタジオが欲しい。一時期はひとりカラオケがその飢えを埋めてくれていましたが、だいぶ前から足りなくなってしまいました。

 

この矛盾をどう扱うかの答えはいまだに出ていないのですが、冒頭に挙げた小劇団のミュージカルについて思い出したことでひとつ、救われたことがあります。

それは、自分が「こんなのつまらない、人に提供するのは申し訳ない」と思っていても、なんかよくわからない理由で好んでくれる人や影響を受ける人がいる可能性はある、ということです。もちろん例の小劇団は真剣におもしろいものを提供しようとしていたと思いますが、まさか十五年たってもあの作品を好きでいる人がいるのはきっと想定外でしょう。

たぶん、世の中にはこういうことがある。私がいままで死んだ目で提供してしまった作品で、なぜか勝手に救われちゃった人がいないとも限らない。受け手がどんなふうに感じるかは、コントロールできない。いい意味でも、悪い意味でも。

それならば、私がこれまで勝手に感じてきた自責の念であるとか、恥ずかしい気持ちなんかは、そろそろ水に流してもいいのかもしれないと思えてきたのです。

もちろん自分が胸を張って提供できるのが(とくにアマチュアなら)一番ですし、そういう割合が自分ではどんどん増えているのは喜ばしいことです。嫌々作らなくちゃいけないときはあるし、やる気満々だったのがしぼんでしまうこともあるし、小手先でやっちゃったなーと自己嫌悪することもありますが……やっぱり供給は正義なのだと思います。人目に触れれば、どこかで何かが起きるかもしれないから。

 

素晴らしい作品を見せてくださった劇団の皆さんにいまこそお礼を言いたくてたまらないのに、劇団名も作品名も忘れてしまったこのポンコツ脳細胞を恨む(たしか作品名は「ジプシー」だった気がするのですが、15年前なのでホームページもたぶん存在してないか残ってないし、そもそもブロードウェイミュージカルに同名のって名作があるから検索に引っかからない)。なので、あの劇団の関係者が目にとめてくれることを願って、ヒロインのメインテーマの歌詞を掲載してこの記事を終えたいと思います。ボトルメールみたいなものです。
関係者の方、もし見たらコメントとかDMとかくださると嬉しいです。

 

棕櫚の木陰に身をうずめて
あの人の声を聞いた
もう私の耳に届くことはないけれど
思い出はいつの日もあざやかに

逢える日は来ないけれど
その希望なしには生きられない
私は歌うわ 美しき日々
もう戻らない日々よ
戻らない人よ

 

お風呂瞑想と、痛む体に通す筋(スジ)について

この一か月くらい、お風呂瞑想をやっています。

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参考にした元ツイートが見つからないのですが、だいたいこんな内容でした。
かわいいイラストで描いてありました。

①今日もいちにちおつかれさまー!と自分に声をかけながら湯船に入る
②体の各部位(内臓や感覚器官も含む)に、感謝する「足さん、今日もたくさん歩いてくれてありがとう」等
③全身に声をかけたら、全身のすべての細胞にも感謝をする
④のぼせない程度に、リラックスして湯船につかる

全身にやるといい感じに力が抜けて、めっちゃリフレッシュできるのでおすすめです。

 

私の場合は声には出さずに(声出すと集中が切れるから)こんなことを頭の中で言います。
「足の筋肉、神経、すべての細胞。お疲れ様でした(ありがとうございました)」
筋肉と神経と細胞をわけてるのは、そのほうが力がうまいこと抜けてくれるからです。個人的な感覚です。
機能に関する言及を省いているのは、体の各部位の仕事がちゃんと理解できていないからです。たとえば足は歩く以外にも毎日ものすごく仕事をしているのに、歩いたことだけ感謝するってのはなんか変かなと。主婦(主夫)に対して炊事だけを感謝するみたいなアンバランスさを感じる。なので、してくれていることすべてに感謝するという意図で省いてます。明らかに今日はめっちゃ歩いたな、みたいな日はまた別。
それから、「ありがとうございました」ではなく「お疲れ様でした」と言う日がとても多いです。だってさー、自分に置き換えてみたら疲れてるときは感謝されるよりも先に「おつかれさま」って言ってほしいもん。疲れてることをわかってほしい。めちゃめちゃしんどいときに「ありがとう」だけ言われると何お前だけ幸せになってんだよと思う。……という理由で、お疲れ様のほうがしっくりくる日が多いです。なんとなく今日はありがとうだな、って日もあります。


これを応用すると、お風呂に入ってない時でも凝り固まった体がほぐせるようになります。
たとえば私はしょっちゅう肩こりが痛くなるのですが、痛いあたりに意識を向けて「お疲れ様、ごめんな」と声をかけると一発で力が抜けて痛みが和らぎます。他に痛いところがある場合も、同様です。


ちょっと前まではストレッチとか薬とかで痛みや不快感を軽減しようとしていたのですが、考えてみると不定愁訴系の痛みって何かしらのストレスを引き受けてくれてるから痛いんですよね。私たちが無茶したりミスってるのの尻拭いで無理をしてくれてるわけで。「お疲れ様、ごめんなさい」とその部位へ真っ先に声をかけるのが筋ってものだよなあと思ってます。
仕事背負いすぎて体を壊した社員には「お疲れ、ごめんな、休んでくれ」っていうのが筋じゃないですか。社会がそうしてくれないとしても、自分で自分の体には筋を通してやりたいと思います。

 

ムーラバンダを締めたらあっさり肩こりが緩和した件

ヨガの用語にムーラバンダというのがあります。
長年ヨガをやっている方のブログを読んでいて知りました。

ヨガの練習中にいくつかポイントになるバンダがあるのですが、私がことあるごとに注意されるのが「ムーラバンダ」。「ムーラ」とは「根っこ」「バンダ」は「閉める」。

とても簡単にいうと、お尻の穴だったり骨盤底筋群のあたりだったり。その辺。(やり方はこのブログからは省きます)

また全然関係ないような、お鍋の写真ですが…。

昔、先生がとてもわかりやすく説明してくれたのが、自分の体をお鍋だと想像してみるという例え。「ムーラバンダしていない」ということは、穴の空いたお鍋のようなもの。煮込もうと具材(気)を入れてもそこから漏れていっては、美味しい料理ができませんね。

私はこれがないばっかりに、余計なところ(肩や首)に力が入って、どうも力んでいたり。不安定なポーズになってしまったり。穴の空いたお鍋で料理していたようなものですね…。

ヨガのポーズをしているのになぜか疲れる、というときもムーラバンダが全然な場合も。

 

【気の流れとムーラバンダの効果】体の安定は心の余裕につながる。|ヨガとシンプルライフ

 

 

自宅でPCに向かいながら読んでいて、ケツの穴ムーラバンダを締めるくらいならすぐできるのでやってみたのですが……
すとん、と肩の力が抜けた。
ムーラバンダの位置に意識を向けて締めただけなのに、はっきりと肩の僧帽筋あたりにかかっていた力が軽減されたのを感じました。
あっ、ここ!?ここなの!?ホントはここで体を支えるべきなの!?
こんな一点でいいの!?

 

いままで丹田がどうこう、みたいなのは頑張ったことありましたがここまでの即効性はありませんでした。
イメージとしてはあれです。業務切り分けがクソな会社で、表向きできるプレーヤーがありとあらゆる業務を受け持って疲れ切っていたのが、バックヤードがちゃんと確立してくれたおかげで本来の負担に戻った、みたいな。
肩からの「おせーよ」という声が聞こえてきそうです。

 

まあまだ肩こりがすっかり消えた、というわけではないのですが一歩大きく前進というかんじです。
てゆーか、うん、ほんとに基礎がガッタガタなんだな私の体……。

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余談

肩コリが緩和して喜んだ次の瞬間思ったのは「締まりが良くなって攻めが喜びそうだな」でした。全世界の受けはヨガをやるべき。

ヨガで改善したらいいなと思うこと覚書

そもそもヨガ案件じゃねーよ生活改善しろと言われそうな内容含む。だってヨガやってたら健康的な生活が自然としたくなるって聞いたから……。


上から順に直そうとするとか、スタンプラリーのようなタスク扱いするのではなく、後々に改善されたことがあるかな~とチェックするためのリスト。モチベーション維持が目的。
まあ、ヨガが続かなくっても何かしら役に立つでしょう。

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肉体面

  • 二、三日に一度はある頭痛
  • 眼精疲労(ドライアイ?) ときどき遠くを見ると目の奥がめちゃくちゃ痛くなるレベル。
  • 起床時に喉が痛い。マスクをつけることで緩和しているが、根本対策になっていない
  • 寝起きの不快感。スヌーズをつけずに気分よく起きられるようになりたい
  • 24時間365日ある肩こり/首こり。起床時がけっこうひどい
  • 起床時の胃腸の不快感
  • スタミナのなさ。一日インドア遊びして翌日死んでるのはちょっと何とかしたい
  • 姿勢の改善
  • 下腹が出てる
  • 太もも、下腹部のかゆみ
  • 目力アップ(整体に通ってた時に突然目の開きが良くなった経験から)
  • 慢性的な喉の違和感(かるく痰が絡んでるようなかんじ)
  • 吹き出物。おでこに出やすい
  • 目の下のクマ。というか目の周りの血行が全体的に怪しい
  • 耳切れ
  • 疲労がたまったときに太ももあたりが異常に重くなるのを改善したい
  • 左右で肩の高さが違う(右が低い)

 

精神面

  • 声が張れない
  • 飲酒にブレーキがかからないことがある(半年~一年に1回程度)
  • おかしくないときでも笑い声をあげている(なんかプレッシャーかかるとやっちゃう)
  • 「いや」とか「えっと」とか会話中の余計なフレーズが異常に多い
  • スマホ依存(とくにツイッターとニコ動)

 

 

……とりあえず以上!!


精神面については「てめーもっと重大な欠点があるだろうが」とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、基準としては「自分が不快に思っているか否か」でリスト入りさせてます。一般常識的に欠点とみなせることでも、現状自分が気にしてなくて友人が極端に減ったりしてないならとりあえずスルー。
だって同じだけ努力するなら、自分を気持ち良くするのがいちばん回収率いいんだもの。

ヨガはじめました

昨日、近所にあるヨガ教室の体験レッスンを受けてきました。
外観古いビルの中だったのでちょっとどきどきしたのですが、室内は綺麗で広くはないながらも機能的に整備されていて、とても好み!でした。

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私がヨガに初めて触れたのは大学1回生のとき。基礎教養の選択体育に「ヨガ&空手」という謎のコマをとったのがきっかけでした。大学受験でノイローゼになったせいで、私の興味の一つはメンタルコントロールにあったからです(日常生活がぎりぎり送れてるけど常時抑うつ状態でした。いま思うと完全に要診察案件)。法学部だったくせに心理学の本を読み漁ったりしてました。ヨガは精神安定にいいってどっかで聞いたんだと思います。ちょうど当時ブームだったし。
クソ運動音痴にも、球技や陸上よりははるかに楽しくできそうだという打算もありました。実際、他人と比較する必要もなくどんなに下手でも誰にも迷惑をかけないヨガは最高に気楽にできました。あと空手もほとんどの学生が未経験なので、あんまり差がつかなくてよかったです。心が楽。(ほら、チーム戦で足引っ張ると死ぬほど心苦しいし、個人戦でも相手が下手すぎるとゲームにならないじゃん?自分が楽しめないのはともかく、人の邪魔しちゃうのはつらいんだよ)

 

一年間かんたんに学んだヨガで、私はストレッチが精神安定にびっくりするくらい役立つことを実感しました。まあ、結局ストレッチの域は出なかったんですが……。当時から現在にいたるまで、私は朝夜のストレッチが習慣化しています。やんないと寝つきが悪い。


そしてもう一つ、瞑想というものを知りました。ヨガにはシャバーサナ(死体のポーズ)と呼ばれるポーズがあります。ぶっちゃけ、ただ寝っころがってるだけのポーズです。しかし、たいていの指導者がレッスンの終わりにこのポーズを入れるレベルの重要なポーズです。ただ横たわって、体の状態を感じ、心を静める。
これがねー、できないんですよ。じっと寝てるのができない。「ヒマ」って感じてしまって、ヒマってストレスなのでイライラしてくるんですよ。ぜんぜん心静まらないの。あと体もぜったいどこか緊張してます。私はとにかく肩がやばい。常に肩に力が入ってる。寝てる時でさえ!
それでも毎週やるうちにだんだん「入った」感じになる瞬間が増えていき、それが気持ちいいってことがわかってきます。気持ちいいまでいけると、わりとウキウキ死体になろうと頑張れます。体は正直なので。

 

けっこうヨガを気に入っていた私でしたが、結局2回生になったあとはヨガをやらなくなってしまいました。通学時間が長かったので時間が取れなかったのと、ひとりで集中し続けられるほどにはヨガに習熟できなかったのが要因でした。死体のポーズはヒマだと言いましたが、他のポーズも集中できないとただのストレッチに堕してヒマになります。続かなかったんですよ……。いまやってるストレッチも動画みながらとかです。

 

 


で、じゃあなんで今更ヨガを再開しようと思ったかっていうと理由は二つ。一つ目、通勤時間が短くなったから仕事帰りにお稽古事をする余裕ができたから。二つ目、いいかげん子供のころからある慢性のひっでえ肩こりをどうにかしたくなったから。

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整体に通ったり姿勢改善したりいろいろしたのですが、肩こり本当に治んないんですよ。なんで治らないのかって原因はわかっていて、結局私は肩に力を入れずに自分を支えられると思ってないからなんです。昨日受けた体験レッスンでも、死体になっていても肩がギューッとしていました。
肩ひじ張ってるって言葉がある通り、人体の状況と精神状態はきっちりリンクしていて、私の肩コリはおそらく肉体へのアプローチだけだと完治しない。するとしてもめっちゃ時間がかかる。肩に力を入れなくていいんだと、体と心両方に納得させない限り永遠に私の肩は痛いまんまなのです。

 

ヨガをもう一度始める理由はここです。何人かで一斉にレッスンを受けていても隣の人と自分は関係なく、先生もあくまで参考と調整をしてくれる人で、ただただ「より調度いい自分」を目指していく……っていうのがヨガの思想だといまのところ私は理解しているのですが、なんかこれ、すごい肩こりとれそうじゃん?(頭悪そう)

 

レッスン中何度も「(いまのポーズをとっている間も)呼吸は続いています」と言われるのですが、昨日は途中でふっと「ああ、呼吸=自分ってことか」とわかった瞬間があって。アクロバットみたいな無茶なポーズをとっていても、ポーズが主体なのではなくそのときの呼吸、つまり自分自身はあり続ける、みたいな。なんかそういう感覚が入ってきて。これを日常生活に応用するなら、たとえば数字をあげろ!って怒鳴られているような状況であってもそこに囚われすぎないみたいな境地がめざせるんじゃないかなーとか。
生きてる限り呼吸がほんとうに奪われることってほとんどないですからね。うん、そう考えると水責めの拷問とかって本気でやばいな、思いついた人はサイコパス

 

そうそう、日常生活でも「無理するな」ってよく言いますけど、みんな無理するじゃないですか。あるいはさぼりすぎるじゃないですか。そのあたりもうまくノウハウができていると感じました。
レッスン開始前に先生が「少し痛いと思ったら、その手前の段階に戻してください」って言うんですよね。つまり少し痛い=無理な状態、と定義づけて、無理になったらその前段階に引き戻すという処置を伝えていると。これも応用効きやすいですね。体とか心が少し痛かったら、全部やめるんじゃなくてそのちょっと前に戻る。
ああ、おそらく初心者あるあるだと思うのですが、こうやって言われても私は気づかぬうちに無理をしまくり結局レッスン後微妙に太ももの付け根を痛めました。無理しないのって、修行です。

 

あとゆっくりポーズとってるだけなのに30分過ぎたあたりで全身から汗出てくるの面白いなとか、なんかわからんけど翌日尻と二の腕と肩甲骨の間が筋肉痛だぞとか、あっあと山のポーズ(足を軽く開いた直立)でかるく揺れてもいいってわかったのスゴイ発見でした!そりゃそうだよ日常ってのはぶれるんだ。


えっと、すごい、楽しかったです(こなみ)
とりあえず一か月、週一ペースで通ってみるつもりです。かわいいヨガウェアほしいな。

 


余談

昨日受けたレッスンは「ハタヨガ・ベーシック」というクラスでした。
ハタヨガは要するに一般に「ヨガ」と言われてイメージするポーズをつけるヨガのオーソドックスな奴、くらいのイメージでいいと思います。本来は動きをつけるヨガはぜんぶハタヨガで、そこからエクササイズ系のヨガ(アイアンガーヨガとかパワーヨガとか)に派生したらしい。
ハは太陽、タは月という意味と説明されることも多いのですが、なんとなく陽と陰でイメージしたほうが日本人には誤解が少ない気がする。「ハタ」で力・パワーって解釈されると聞いたときに陰極と陽極を思い浮かべたのは私だけだろうか。
ちなみにハタヨガ60分やったら運動不足の人間には十分すぎるくらいの強度があります。ダイエット?なるなる。

シンパ×カリスマ型カップリングはいいぞ~グラアンから黛赤まで~

聞いてほしい。
推しカプのルーツをついに見つけてしまった。

 

文学少女と萌えの出会い

三つ子の魂百までとはよく言ったもので、べつに三歳のころに出会ったわけではないが小学校のころに読んだある小説が、私の萌えの原点だ。
私はよく本を読む子供だった。
しかしながら乱読派ではなく、どちらかというと気に入った本を何度も何度も何度も何度も覚えてしまうまで読むタイプだった。広く浅く読む性質だったらいまどれほどの知識がついていただろうと残念に思わないではないが、性格なのでいたしかたない。


その本を見つけたのは小学四年生のときだったと思う。
有名なタイトルだったから目につきやすかった。けれど知らない物語に入るのにエネルギーを要する私は、気を惹かれても手に取らない本が無数にあった。それなのに本棚からその文庫本を取り出したのは、背表紙のせいだ。
少女の大きな瞳が三冊の背表紙に分かれて私を見つめていた。
本のタイトルは、「レ・ミゼラブル」。

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子供向けに抄訳されたレミゼラブルの文庫を借りた私は、返すまでに三度は読み返した。その後も、読み返したくなるたびに図書館から借りて行った。
学校の図書室にもレミゼラブルはあったが、訳文が好みではなくもっぱら近所の図書館のレミゼを私は読んでいた。たしか三省堂の文庫だった。翻訳によって味わいが変わることを教えてくれた作品でもあるわけだ。

 

思えば、レミゼは私の道徳心・倫理観の根幹を創ってしまったような気がする。
善が善と見えないことはしばしばあり、それでも善を為そうとすることは素晴らしいのだ、と教えてくれた。(あとファンティーヌの転落振りは、ちゃんと人を選んでしたたかに生きないと食い物にされて終わることも教えてくれた。)
好きなシーンは数えきれない。逃避行のさなかフォーシュルヴァンに再開する場面、バルジャンを救うために生涯最初で最後の嘘をつくシスター、誤って捕えられた男の裁判におもむくバルジャン、規律を自分にも厳格に適用して辞表を提出するジャベール、コゼットがバルジャンとともに旅立つシーン、そして何よりバルジャンを受け入れた司教様(私は銀の燭台云々のくだりよりも、バルジャンが尋ねる前後のシーンのほうが思い入れがある。あの時点で司教の慈悲深さがマックスに描かれているので盗みのあとは逆に出来レースくらいに見えていた)

 

そして推しカプへ

思い出話が長くなったところで、本題に戻ろう。私の情操教育に大いに貢献してくれたレ・ミゼラブルは、同時に萌えの原点も与えてしまっていた。
ご紹介しましょう。
グランテール×アンジョルラスです。


彼らは二人とも革命を志す学生だが、その立ち位置は真逆といえる。アンジョルラスは学生たちのリーダーとして慕われている。カリスマ性にあふれ、志高く、そしてアポロンに例えられるレベルの美男子だ。作者は完全に彼を完璧超人として描いている。(私は一度でいいから原作生き写しのアンジョルラスを舞台か映像で観たい)
対するグランテールはグループの厄介者という立ち位置だ。革命グループにいるのに、懐疑主義的視点を隠さない。いつも酒を飲んで、革命のための話し合いにはまともに参加せず、賭博に女にと遊びまわっている。「理念のために死ぬのは馬鹿らしい」という態度を隠そうともしない。グループの鼻つまみ者であり、アンジョルラスも好印象は持っていなかった。


ではなぜグランテールは革命グループに参加しているのか?……アンジョルラスがいるからである。
思いっきり、作者ユーゴーが書いている。公式が言っている。

それにこの懐疑家は、一つの狂的信仰を有していた。それは観念でもなく、教理でもなく、芸術でもなく、学問でもなかった。それはひとりの人間で、しかもアンジョーラであった。グランテールはアンジョーラを賛美し、愛し、尊んでいた。この無政府的懐疑家が、それら絶対的精神者の一群の中にあって、だれに結びついたかというに、その最も絶対的なるものにであった。 

 

こんな、ものすごい熱量の片思いをしているのである。
グランテール→→→→→→→→→→→→→→→→→→→アンジョルラス ってかんじだ。懐疑主義者が唯一「君を信じているよ」と言う相手。もうこれだけでそうとうヤバイ。
ちなみにアンジョルラスからは基本的に誰に対しても矢印は伸びない。アポロンだから。

 

そんなとんでもねえ片思い状態にもかかわらず、グランテールはアンジョルラスに協力したり追従したりしようとしない。その理由はさまざま考えられるし早々に結論をつけてしまってはもったいない案件なので後日に譲るとして、グランテールが信仰対象に従わなかったがために何を失い何を得たのかの話をしよう。


革命理念のために戦わなかったグランテールは何を失ったか。それはアンジョルラスからの敬意であり、友愛であり、そしておそらくいっしょにいる時間だった。作中グランテールはアンジョルラスに何度も厳しめの叱責を受けていて、ガチで傷ついたらしいシーンもある。そしてよりにもよって、戦闘が激化しついに本拠地が落ちようとするときに泥酔していたせいで参加できないという大失態を犯す。グランテールはアンジョルラスとともに戦うことは、ついに一度もしなかったしできなかった。


では何を得たのか?泥酔していたせいで本拠地の奥に忘れ去られていたグランテールのもとへ、敵兵に追い詰められたアンジョルラスが逃げ延びてくる。アンジョルラスはそこに至るまで、仲間たちに「お前が生きていれば革命は続く」とばかりに、命を賭して逃がされてきた。そしてついに敵兵に囲まれたアンジョルラスは革命の理想の象徴として死に瀕する。
そこに、グランテールは立ち会うことができた。
物音で目をさましたグランテールは、寝たふりをしていれば助かるかもしれないと知りながら立ち上がってアンジョルラスの隣へ行き、ともに死ぬ許しを求めた。アンジョルラスはそれを受け入れ、二人は撃たれた。

 


……エモくない!?
腐女子の基礎教養にするべき二人だと思っているのは私だけではないはず。
自分の信念とはぜんっぜん合わない相手にも関わらず強烈に愛してしまった相手を、しかし自分なりのやり方でしか愛せなかったあげく、最後の最後に報われる。(報われなくてもそれはそれで美しいと思う。そもそもアンジョルラスを信仰し始めた時点でグランテールに選択肢はなかった)
アンジョルラスはアンジョルラスで、「君を(=革命のリーダーとしてではないアンジョルラス個人を)信じている」と言ってもらえるのは救いだろうと思う。

 

 

 

シンパ×カリスマ型カップリング

さて、ここまでは前置きだ。
グランテールとアンジョルラスが、私の萌えの原点であると冒頭で話した通り、私がこれまでドハマりしてきた推しカプはたいていこの類型に当てはまる。
グラ×アン的カップリングを「シンパカリスマ型CP」とここでは名付けておきたい。
グランテールがシンパで、アンジョルラスがカリスマだ。カリスマ受けです。

シンパカリスマ型CPはおおよそ以下のような特徴がある。

  • シンパ→→→→→→→→→→→(←)カリスマ。シンパが強烈に片思いをしている。
  • シンパの思想信条はカリスマのそれと一致しない
  • カリスマの善悪正邪をシンパは問題としない
  • シンパは両想いになることを重要視していない
  • シンパはカリスマの解釈違いに厳しい
  • シンパはカリスマを愛するための損をいとわない(リターンがあるという意味では無い)

(あれ……これってむしろユダジーザスCPって言ったほうがわかりやすいんじゃないかなでもさすがにそのネーミングは危険だからやめておこう)


では、実例を見て行こう。WJ漫画ばかりになったのは、なんだその……許してほしい。
あとこっからはただの萌え語りが加速するので、苦手だったらUターンしてね。

 

1.瀬戸健太郎×花宮真(黒子のバスケ

カリスマが悪いやつだったパターン。
しかし上記に挙げた通り、シンパにとってカリスマの魂こそが大事なので表向きに現れている行動が善くても悪くても関係ないです。もし花宮がとつぜん「砂漠を緑化するぞ」って言い出しても瀬戸健太郎はついていく。(まあ他の霧崎メンもぶーぶー言いながらついていくのだけど)

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わりと瀬戸にとって救いなのは、花宮が身内は大事にしてくれるタイプなことでしょうか。今回あげるCPの中では屈指の報われているシンパだと思います。
ただし瀬戸に花宮は必要ですが花宮に瀬戸は必要ってわけじゃないので、瀬戸はいつ自分が「いらない」っていわれるか潜在的に恐怖し続ける運命にあります。明確な脅威が現れたら黒崎(2組目参照)みたいな状態になる。がんばれ。

 

2.黒崎×内海(機動警察パトレイバー

カリスマが悪いやつだったパターンその2。
しかし瀬花よりもだいぶ黒崎さんはかわいそう感が強い。基本的に内海課長の興味、グリフォンにあるから……。そのせいで幼女(バド)にかなり醜い嫉妬をすることになってしまって本当に哀れです。あ、武緒にもか。でも幼女に嫉妬してたイメージが強いな……。
今回あげるカプの中でも、内海課長に惚れたがために支払ったものがかなり重いシンパが黒崎さんです。たぶんふつうのエリートビジネスマンとして生きて行けただろうに。もうさん付けせざるをえない。かわいそう。

 「犬」でしか生きられない奴っていると作者にすら言われる男、黒崎。どっちかというと、一匹狼で生きていけると思っていたら飼い主に出会って犬である自分を自覚してしまったという印象がありますね。これはシンパ共通の特徴。

 

3.闇撫の樹×仙水忍(幽☆遊☆白書

カリスマが途中で変節しちゃったパターン。
しかし樹にとってあの変節は忍が純粋で正義を為そうとしていたからこそ起きた必然の事態ととらえているので、解釈違いにはあたらない。むしろ絶頂もん。

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他のCPに比べて樹の尽くしている感は薄いのですが、樹がそもそも妖怪である点を考えると十分尽くしすぎている。死ぬまで好きにさせてやるって愛のかたちはいいと思います(こなみ)。本編中の行動原理がすべて「忍の邪魔をさせない」に一極化されてるのソーグッド。
樹が「俺達七人で穴を掘る」に入れてもらえてない辺りとか、「(忍が痛みをみせてくれなかったこと)オレはそれがすこしくやしかった」のあたりにシンパカリスマ型の片思い感があふれていて最高です。

 

4.黛千尋×赤司征十郎黒子のバスケ

黒バスから2カプ出てきてしまったのは、同作が天才についての話だからです。ただし、瀬花と黛赤以外はシンパカリスマ型ではありません。ボーダーラインは、カリスマがいなくても本編時点でシンパがバスケをしていたか。カリスマ不在でもバスケしてるであろう場合はシンパカリスマではありません。「特徴:シンパの思想信条はカリスマのそれと一致しない」を満たさないからです。(グランテールはアンジョルラスがいなければ革命運動なんてしなかった)

黛赤は、シンパがカリスマの解釈違いにいかに厳しいかを見せてくれるCPです。おわかりですね、「誰だお前」のシーンです。

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赤司が自分を絶対だと信じられなくなったことを感じ取って、そんなの赤司じゃないと言い出すシンパ。怖い。
ただし黛は本人を除いて唯一「赤司は常に正しい、絶対は赤司だ」を信じていた節があるので(火神の超広域ディフェンスに攻めあぐねた赤司をノータイムで助けに行った)、そのレベルのシンパを裏切ったらまあ「誰だ」くらいは言われても仕方ないかも。その結果、自分の愛したカリスマをうっかり殺しているのも見どころです。(ああユダイエス……)

 

5.水戸洋平×桜木花道(SLAM DANK)

五組目にしてようやく両者とも善人といえるカプが現れたことにちょっとした悲しみを感じる。
水戸も花道を支えるために、高校生としてはかなりの代償を払っているシンパです。

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  • 三井の殴り込みを止めるためにバイトを無断欠勤
  • バスケ部の活動継続のため謹慎処分をくらう(よく三日で済んだよな……)
  • シュート二万本合宿につきあう
  • IH会場の広島への往復、宿泊費(たぶんバイトで賄ってる)
  • 桜木軍団の愚痴「花道がいなくてつまんねー」を聞いてあげる

などなど。
当の桜木はどんどんバスケット選手になってしまっていくので、支えれば支えるほど遠ざかっていくという厳しい現実。パトレイバーの黒崎は内海が頭おかしいクズであるがゆえに報われないのですが、水戸は桜木が正しく進んでいくがゆえに報われない。だって桜木軍団に戻る花道は解釈違いだから。シンパカリスマの辛いパターンです。「花道がいなくてつまんねー」っていちばんわめきたいのは水戸だろうよ……。
リョータにフェイクを習う桜木を見つめる水戸の微妙な表情がつらい。ついに兄貴分もできたかあ……みたいな顔。「(俺の全盛期は)今なんだよ!」を間近で聞いてしまうのもつらい。シンパは全員マゾですが、中でもマゾ度の高い男が水戸洋平です。

 

 

 

 

以上、いまのところ私が把握しているシンパカリスマ型のカップリングでした。
こういうカプ知ってたらぜひぜひ教えてください。泣いて喜びますし、ハマったら支部に小説があがります。供給がふえるよ!
よろしくお願いします。
よろしくお願いします!!

 

余談

霧崎第一に飢えてる人はパトレイバーを読んでください。企画七課は、企業社会で楽しそうにラフプレーをしている霧崎第一です。

あいさつは夫婦生活をハッピーにする

昨日は友人の結婚式でした。

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なんていうか、花嫁姿っていいものですね。ウェディングドレス、カラードレスともはちゃめちゃに可愛くてそして当然ながら友人もはちゃめちゃに可愛かったのでひたすら眼福でした。さすが俺の嫁
新郎さんも誠実そうな方で嬉しくなりました。さすが俺の嫁、目が高い。
※この友人は高校の部活仲間であり、「俺の嫁」というスラングが流行っていた時期だったため互いのことをいまだに「嫁」と呼び合っています。当時は生涯最高に百合百合してました。うらやましかろう。

 

久しぶりに会った高校の友人たちも、のきなみ良い男と良い女になっていました。最高。
そういえば私については雰囲気が変わったと言われましたね。なにがあったんでしょうね。BLを嗜んだからですかね。

 

高校メンツで行った二次会では近況報告やら思い出話やらいろいろ盛り上がったのですが、そのときにぽろっと話したことがなかなか我ながら良いアドバイスなのではないかと思ったのでドヤ顔でここに書きます。
ちなみにこのブログは新婦に捕捉されています。祝いのスピーチ代わりです。メッセージカードって当たり障りないことしか書けないもんね。それがいいところなんだけど。

 

 


我が家は結婚してもうすぐ二年、同棲からは丸三年、付き合い始めてからは、えーと、たぶん七年くらいになります。
いまのところ大きな諍いもなく、楽しく生活できている理由はなんだろうと改めて考えてみました。「おや、私は旦那さんにおんぶにだっこすぎるのではないか……?」という疑いが浮かび始めましたが、それはそっとわきによけてお話しします。


結論としては、「毎日あいさつをする」。これなのかなあと思っています。
我が家で言うなら、おはよう、おやすみ、いってきます、いってらっしゃい。
この四つです。毎日のあいさつを、大好きな人に気持ち良くできる生活はそれだけで幸せなものです。だから、ちょっと暗い気分のときでも明るくパートナーにあいさつをする心がけが…………


みたいなことが、言いたいわけではありません。
いえ、あいさつが大事なのも、気持ちよくあいさつができりゃ幸せなのも本音ですが別に毎日さわやかに挨拶をしろと言いたいわけではありません。そういう精神論的思考は、私がもっとも嫌うところです。どんな良い習慣も無理をすればむしろ愛と健康を損ねます。


じゃあなぜ意識的にあいさつをするのか。それは「自分が心から気持ちよくあいさつができているか」をたしかめるためです。笑顔で言えなかったり、あいさつが億劫だと感じたら何か問題が起きている可能性があります。とてもわかりやすいアラートになってくれるのです。


気持ちよくあいさつできない原因は、かならずしもパートナーにあるとは限りません。単純に疲れてるのかもしれないし、職場でのストレスがたまっているのかもしれない、もちろんパートナーに不満があるのかもしれません。いずれにせよ、この世で最も愛している人間に対してあいさつができないほどの事態であることはたしかです。ヒヤリハット的に対処する必要があります。

 

このように、毎日のあいさつは自身のメンタルチェック機能を果たします。結婚生活の目的を二人の幸せな生活と規定するなら、必要条件の一つは自分が幸せであることです。自分の心身の健康状態を気に掛けることは、二人にとって重要なことです。
もちろん、目を合わせてあいさつをすればパートナーの健康チェックにもなります。らぶいです。


発見された問題が小さなものであれば、自分一人であっさり解決できることも多いでしょう。しかし、あえて伏せておきたいことでなければパートナーに報告をあげておくことをおすすめします。解決済みの案件であっても「こういうことがあり、この点が嫌だったので、このように対処した」というデータをパートナーと共有しておくことは、二人暮らしをスムーズにします。お互いに相手が嫌がることを事前に避けたり、補助したりできるようになるからです。

 

あいさつは基本、というのは物心ついたときから言われ続けていることですが、家族間においては外の社会とは違った観点で使いこなしていくといいよ、というお話でした。

 

 

結婚おめでとう。お幸せに!
わたしもあなたも、世界中のカップルがパートナーと幸せに暮らせますように。