ハリハリのブログ

人に見せても良いと判断した思想感情を記録しておくための保管庫

ヨガは成長を求めないのかもしれない

ヨガを始めて一か月が経過しました。教室の月会費も更新し、二か月目も通い続けそうです。

頭の中でごちゃごちゃ考えて勝手にイラつきMAXだった日でさえ、一時間がっつりと体を動かすとだんだん頭の中が静かになってレッスン場を出ていくときには平常心になっているのがとても面白いです。これはどんなお稽古事でも似たような効果が得られるでしょうが。

 

今回はひと月ヨガをやってみてふと感じたことについて話そうと思います。
「もしかして、ヨガって実践者の成長を必ずしも意図してないんじゃない?」という仮説です。

 

ヨガの特殊性

ヨガをはじめるきっかけはそれぞれでしょうが、たいていは何かしら目的を持っていると思います。
体力つけたいとか、肩こり直したいとか、メンタルケアしたいとか、痩せたいとか。自分が持っている不調を改善しようとして来るわけですね。
そうなると理想は前回のレッスンより今回のほうが良くなっていること。成長しつづけることです。
前より前屈が深くできるようになったり、ポーズが一段階難しいのにできたり。もし前回よりも悪くなっていたらがっかりした気持ちになります。「集中しなきゃ!」と自分を叱咤するかもしれません。

……が、少なくともヨガにおいては「前回より下手になっていてはいけない」は妥当しないっぽい雰囲気をこのひと月で感じています。
成長し続けること、前回よりも良くなっていることがベストとは限らないんじゃないか、ということです。


私の通っているレッスンの開始時に毎回行われるイントロダクションをご紹介しましょう。

  • 自分のための練習にしてください。
  • 無理をしない。
  • 痛いと思ったらひとつ前に戻る。
  • 周りと合わせる必要はありません。
  • 必要だと思ったら自分の判断で休憩(チャイルドポーズ)を入れてください。
  • インストラクターがアジャスト(正しい位置への調整)をして合わないなと思ったら教えてください。

どうですかこの徹頭徹尾自分を優先しろってかんじ。


実際に練習をはじめると、体の使い方の指示と同じくらいの頻度で自分の体の状態をよく感じろという指示が入ります。

 


ヨガのポーズには明確な難易度調整が可能なものがあります。たとえば立ち木のポーズは、上げている足が高い位置にあるほど難しいとされています。

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それなら、できるだけ難易度高いのをできるのがいいって思うじゃん?どうやらヨガだとそうじゃないっぽいんですよ。
そのポーズで一番集中して深められる難易度こそがベスト。難しければ難しいほど効果が高いってもんじゃないらしい。
高難易度はいまの自分には辛い、ってわかることは、高難易度ができるようになることと同じくらい重要なんです。

 

おそらくヨガってできる/できない、上達した/してないじゃなくて、現在の自分を観察するっていう側面が一番大事なんだろうと思います。もともと瞑想のためにポーズ(アーサナ)をやるらしいので。

『このポーズができない。どうやら腿の裏が固いらしい。呼吸も浅くなっている、少し深くしてみると……あ、ちょっと入った。けどやっぱりできない。できないことを認識した』
『このポーズは楽だ。高難易度パターンも余裕でできる。……けど、気づいたら歯をくいしばっていた。肩も詰まってる。力を緩めると……うあ、苦しいぞ難易度下げよう』

ここまで明確に意識はしてないですが、言語化するとこんなかんじ。延々ポーズとってる間自分を観察して、ポーズの範囲でベストな在り方を探していくのを75分。
(キツいポーズの時は観察する余裕すらなく「あーっあーっ!つらいつらいつら……アッー!」みたいな感じになってることもありますが、それはそれでひとつの反応)

 

今日の自分を追求することと成長し続けることは矛盾する

で、当然ながら人間日々変化していくので、ある日にベストな在り方がその一週間後にベストなんてことはありえないわけです。
先週は最高難易度がちょうどよかったけど、今日は一段階下げたほうが気持ちいい。やろうと思えば最高難度もできるけど、今日はやらない。
そういう判断が許される、むしろ推奨されるのがヨガなんじゃねえかなあと思っているのですよ。

周りの人と比べるなって指導されるとはじめのほうに書きましたよね。先週の自分自身なんて周りの生徒と同じくらい他人じゃないですか。対抗してどうすんだよって話です。

ここまでの話をもとに演繹していくと「昨日の自分よりも今日の自分が優れている必要はない」→「ヨガは成長を目的とはしてない」っていうのが自然な結論に思える。
どの教室も改善や成長を謳うけれど、突き詰めるとそこじゃないんでしょう。誇大広告だとは思わないけどね。中級者くらいまではちゃんと自然に成長曲線作るでしょうし。
自発的な欲求として成長を志すのはアリだけど、ヨガそのものはそれを要求してこない、みたいなイメージです。

 

結果的に改善や成長と見えることがあっても、それはほんとうにただの結果でしかない。しかもその結果すら途中経過にすぎない。今日まで右肩上がりだったことは明日も成長することを保証しない。明日からずーっと劣化し続けることだってありえる。
……ていうのは事実としてあるじゃないですか。修行としてのヨガがそこを想定してないとは思えないし、むしろそのときに対応するためにヨガがあるのだと考えたい。


劣化していく毎日でも「今日の自分はどんなかんじかなー?(´∀`*)」と平常心でポーズとっているのが、それなりに極めた人なんじゃないかなあ。
それってとっても、格好いいなあ。
そんなふうに、超絶ビギナーヨギーニは思っているのです。

 

 

余談

たぶんこういう話ってヨガ書籍をあたれば書いてあるんだろうと思うのですが、自分で新鮮に発見したいのでとりあえず最初の三カ月は関連書籍封印してます。クソ頭でっかち野郎だという自覚があるので、知識入れた瞬間に自分で考えなくなるのは経験済み。
朝ヨガのためにYoginiの太陽礼拝特集号だけ買いました。雑誌買うの久しぶりだったので、めちゃくちゃ広告多いんだなって驚きました。


余談2

私の通ってる教室は生徒間のつながりが最小限なのでとても気楽です。でもレッスン中にキツイポーズが入ると誰も何も言ってないのに「クソつらい!」っていう感情がガッと共有されるのめっちゃ面白いです。趣がある。
TLで同時多発的にフォロワーさんたちが萌え転がっているのをみる感覚に近い。

朝ヨガってやつをはじめました。

朝ヨガ=(早起きして)朝にヨガをすること、です。
とりあえず以前より四十分早起きして、太陽礼拝5セットと肩こりに効くポーズをひとつかふたつ、ってかんじでやってます。
何事もそうだけれど、回数をこなすのってやっぱり大事だと思うのですよ。
週に1回75分だけやるのと、プラス毎日20分やるのはちがう。
ヨガマットも買っちゃったし~。

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次はヨガブロックがほしい~☆
ヨガウェアもほしい~♪(物欲)

 


まだ三日目ですが、ちょっとダウンドッグが上手になってきたなという実感が出てきました。


実はシャバアーサナ含めても20分くらいで終わるので、残りの20分弱はこうやってブログ書いたりしています。
ふだんどおりの分量を一本書くにはちょっと足りないので、二日に一本くらいのペースかな。
短い時間で集中するので、思いのほかちゃんと書けますね。なるほど朝活が流行るわけだ。
同人イベントが近くなったらこの時間帯を使って原稿をしたりすると思います。
早起きして男同士がいちゃいちゃしている小説書いてる図ってけっこう滑稽ですが私は本気です。

 


今のところ一番朝ヨガの効果感じているのは、出勤時に駅まで歩いているときです。
なんかね、歩きやすいんですよ。
疲れないって言うか、無駄な力を使わない感じ?
最寄駅まで10分強歩くので快適に歩けるかっていうのはけっこう生活のハッピーさに直結するのですが、まさかの朝ヨガで改善。

 

おそらくですが朝ヨガでしっかり体幹を動かし、締めるところを締め緩めるところを緩めた結果、自然とコアを使いながら歩行ができているのではないかと思います。
ふだんの私の歩き方は重心をブレさせまくっているせいでエネルギーを余計に食い、体のあちこちを痛めているのでしょう。靴底の減りとかひどいんですよ私。外側のかかとだけすーぐ無くなっちゃう。
ちゃんと真っ直ぐ歩くだけでマジ疲れないんですね。すごい。
靴も変えてないし姿勢も別に意識してないので、本当に太陽礼拝だけで歩き方が改善された可能性大です。さすが太陽礼拝。
(※太陽礼拝はベーシックなヨガの流派で基本とされる一連の動きです。武道の型とかに近いんじゃないでしょうか。基本にして奥義的な奴)

 

ちょっと残念なのは、夕方まで良いコンディションは続かないらしく朝ほどの改善は感じられないこと。
体自体が変化していくことでだんだん24時間しっかり歩けるようになるんじゃないかなーと期待しています。

 

朝活への挑戦は何度かしたことがありますが、ここまで即効でメリットつきつけられたのはじめてでちょっとキュン///ときてます。チョロい女なので。気持ちよくしてくれるものだーいすき。瀬花ください。
そんなわけで、朝ヨガと朝活をしばらくやってみようと思うよって話でした。

車の顔がわからない私が惚れたホンダ

興味のないものは区別がつかない。

六つ子はシルエットで見分けられるのに、AKBは顔写真を並べられてもだいたい同じに見える。
プロ野球球団をセリーグパリーグに正しく振り分けられない。
車の種類の区別なんて全くつかない。
国産車か外車かを正しく判別できる自信がまったくない。ポルシェの顔が思い浮かべられない。スバルがメーカー名なのか商品名なのかたまにわからなくなる。
生活に車が必要ない首都圏住まいだからいいようなものの、車必須の地域に住んだらえらいことになりそうだと思う。
誰かに車で拾ってもらう約束をして「白のシビックね!」って言われても絶対ピンとこない。

 

車の区別がつかなくてけっこう困るのが、小説を読んでいるときだったりする。
たとえばあるキャラがレクサスに乗っている、という情報を提示されても私は「車もちなのかー」としか思えない。これが詳しい人なら、レクサスという情報からその人物の年収やらステータス意識やら美的趣味やら異性関係やらがあるていど推し量れるはずなのだ。というか、推し量れるからこそ作者はレクサスという車種をわざわざ提示しているのだ。いや、もしかしたらレクサスに乗っている人のステレオタイプとは違った人物像をあとで描写して、ギャップ萌えを狙っているのかもしれない。でも私はそのギャップに気づけない。レクサスがなんなのかわからないからだ。
レクサスの顔も性格もステータスもわからない。ユンボに乗ってるとかのほうがまだ読み取れる。
(同じような事象が、雑誌名とかでもよく起きる。赤文字系雑誌とか言われてもピンとこない。あ、ポップ音楽でも良く起きる。ダメだ私の興味が狭いのがすべての問題な気がしてきた)


そんな私が最近ズキュンときた車がある。
ポスターの画像を見て、もうメロメロになってしまった。
こちらです。

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やっばくないですか!?とくに三番目のボルドー
このレトロな四角いフォルム!渋い色使い!もうめっちゃ可愛い超乗りたい!これでドライブ行きたーい!


……と思ったのだが、このポスターは1979年にアメリカで発売されたホンダ車らしく。
売ってない。もし売ってたとしてもやべえプレミアついてるか、メンテに死ぬほど気をつかうはめになる。というか左ハンドル。いまだに駐車もまともにできない私には荷が重すぎる。中身の機能も古いだろうし燃費なんて比べるまでもなく……。
惚れた瞬間に失恋、って気分。生まれて初めてこんなに車を好きになったのに。

あ、はい、単なる愚痴です。言いたいこととか特にないです今日は。

 

余談

いまの車ってつるんと流線型で、サイバーっぽい色がおしゃれって扱いじゃないですか。
こういうデザインが好みな人の受け皿あるんですかね?
ちょっとググってみたのですが、レトロ趣味な人のためのレトロってかんじでダサい方向に振れちゃってる印象だなあ。
ああ、欲しいな1979年のThink Simpleなホンダ。復刻とかしてくれないかな。
ミニチュアとかで近いものをさがそうかしら。

ハリハリはミニマリストであるか?

友人に「あんまりもの増やしたくないんだよねー」と言ったら「ミニマリストなの?」と訊かれたことがある。
マジで何もない部屋に住んでいるミニマリストをテレビの特集で見たのを思い出しながら、「ああいうのじゃないですよw」と答えた。

が、いまあらためて考えてみると私のモノに対する考え方の根っこはけっこうミニマリスト的だ。

管理運用できないものは捨てる~ハリハリ流整理術 - ハリハリのブログ

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現在の考え方に落ち着いたきっかけ

昔から、物を捨てるのはためらいがないほうだった。年末に自室の大掃除を命じられると誰に教わったわけでもなく不用品を捨てるところから始めるような小学生だった。(母はわりと物を持ちがちなので、もし教わったとしたら父。可能性は低いが)捨てることは好きだった。捨てたぶん、すっきりする感覚が身についていた。

しかしなんだかんだ思い出の品や、あんまり使っていない色付きのペンなんかは何年も何年も持っているほうだった。才能?はあったものの、ミニマリスト的というほどではなかったと思う。

 

変化が起きたのは、私がちょっとした人生の挫折を味わっていたころだった。平たくいえば失業して実家でニートをしていて、暇だった。
毎日タブレットで動画をひたすら見続ける生活。自分自身と親がメンタルを圧迫し続ける日々に、もうひとつ、圧力をかける存在があった。
タンスである。
六段で幅1メートル弱はある大きな木のタンス。昔は弟と共用で使っていたが、そのときは個室をもっていたので私専用になっていた。

そのタンスに、服が入らないのだ。昔は二人ぶんしまえていたのに。
入るには入るのだが、ぎゅうぎゅうと押し込まないと入らない。当然、服をしまうたびに億劫でしかたがなかった。

服を買うのが趣味ならまだわかる。しかし私が服を買うのは多くても一月に一着ていど。タンスがパンパンになるのは、おかしい。

 

暇だった。
動画を見続ける以外のことがしたかった。
そこで私は、タンスとクローゼット、ついでに学習机やその袖机に本棚、自室にあるあらゆる収納の中身をリストアップすることにしたのだ。

 


持ち物のリストアップをしたら

八月の蒸し暑い室内で、黙々とモノを手にとってはパソコンで名前と数をメモしていく。
三時間ほどかかったと思う。

タンスがいっぱいな理由はすぐに判明した。中身の約5割を、中学生以前から持っていた服が埋めていたのだ。当時二十代前半だったので、約十年前の服が入っていたことになる。
原因の一端は、私の体の成長が小学六年でだいたい終わってしまったことにある。13歳から成長期の終わりまで五センチと身長が伸びなかった。十年前の服が、体型だけを考えるなら楽々着れてしまうのだ。

この「着れてしまう」が曲者だった。私は物を捨てるのが好きだったが、捨てるのは「もう使えないもの」だけという無意識のルールがあった。着られる服は、まだ使える。ゆえに、捨てられない。
そして、うちにたくさんあるから、着られるものがあるから、新しい服は買わない、買えない。
三年ほど袖を通していない服が10着はあった。真ん中に大きく「M」と刺繍された、水色のダサいトレーナーは特にかさばっていた。

 

リストアップが終わり、私は水色のトレーナーを両手で目の前に掲げた。
ひとつの問いが形を成そうとしていた。問えば、戻れないという予感があって、なかなかはっきりとした言葉にならなかった。
無意識の葛藤の後、ついに私は訊いた。
「これ、まだ着たい?」
短い問いを待ちきれなかったように、と心が答えた。
「まだ着る?」
欲求ではなく可能性を問うと、ふたたび否が返ってきた。
もう私は気に入りの冬物を何着か持っている。ダサいトレーナーをどうして着ようとするだろう。明日も、来週も、冬が来ても、来年も同じ答えを返す。
それがわかってしまえば、もうするべきことは決まっていた。

私は半透明のごみ袋に、トレーナーをつっこんだ。二枚目、三枚目と、タンスを埋めていた「もう着たくない」衣服を次々に捨てて行った。
間引くような心地がした。幼いころ祖父の家庭菜園を手伝った時に、育ちの悪い部分を切り落としたときの心地悪さと同じだった。未来の収穫のために生きている部分を殺すのと、まだ使えるものを現在と未来の自分のために処分する辛さはとてもよく似ていた。

けれど一着捨てるたびに、私は許されていく気もしていた。気に入らない、自分に合わないものをもう使わなくていいのだという安堵感。肌に合わないモノに囲まれていることがどれだけ不快だったかを捨てて初めて感じた。


捨てて、決めたこと

その日私が出したゴミは45リットルのごみ袋で3袋にもなった。衣服だけでなく、使っていない日用品や、思い出とも呼べない惰性でとっておいた思い出の品も処分した。3袋分のごみが自室にあったことにまず呆然とする。
大量殺戮を受けたタンスはからっぽ同然で、春秋ものにいたってはほとんどゼロになってしまっていた。二か月もしないうちに必要になるものを捨てることにはためらいがあったが(当時は財布に余裕もなかったし)、それよりも着たくないものを置いておく不快感が勝った。

 

久しぶりに目にした、タンスの底板を撫でながら静かに決めたことがある。
これからは着たいもの、使いたいもの、目にしたいものだけを持っていることにしよう。買うときによく考えるのはもちろん、すでに持っているものでも楽しく使えないと思ったら捨てよう。
多すぎて苦しむよりは、少し足りない苦しさを選ぼう。

 


ミニマリストかは知らないが

……というのが、私のはじめての断捨離体験だった。
それ以来、基本的に物を溜め込むことに今日まで来ている。物を買わなかったわけではない。ネイルにハマって一時期は道具をそろえていたし、興味が惹かれれば服も本もCDもゲームも家電もぬいぐるみも買っている。
ただ「無理に長く大切にする」ことはやめたので、この五年で買ったものの多くがすでに手元にない。現在の我が家でもフードプロセッサーとジューサーとヨーグルティアとジャケット一枚が、風前の灯だ。
でも何回整理してもサンホラのCDだけは捨てられない。Neinの箱ほんと場所取るんだけどね!おのれグラサン。

 

物を大切にすることは良いことだ。でも、少なくとも私はたくさんのものを大切にすることはできないし、大事に思えないものに囲まれているのは不幸せだ。
好きではない人と付き合い続けることが不誠実であるように、使わないものを取っておくのも誠実ではない。
いまでも間引く瞬間はつらい。けれどこれからも私は物を捨て、物を得ていくのだと思う。

 

スマホを水没させたたのでプチネット離れしてた

先週末に我がiPhone6をボチャンとやりましてね。
時間が短かったのと、帰宅してから丸2日乾燥させたのが良かったのか今のところ以前の通りにうごいています。

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このブログを読んでいる人の相当数が当てはまる気がするのですが、私のスマホの使い方は基本「ヒマさえあれば画面見てる」でした。Twitterかpixivかニコ動です。
朝、目覚ましアプリを停止させるとシームレスでニコ動を起動して見ながら身支度。ごはんのときはもちろん、着替えも歯磨きもニコ動流しっぱなし。
家を出ても、信号待ちやエスカレーターに乗っている15秒でスマホを見ようとします。電車の中では言わずもがな。
オフィス内にはセキュリティ上スマホを持ち込めないのですが、休憩のときにはトイレの個室にスマホを持ち込みTwitterとかをチェック。
家に帰ると朝と同様にずーーーーっとニコ動を流しながら家事や食事や入浴(ド近眼なのに無理して見ていた)。手が空いたらだらだらTwitter支部。寝る直前まで画面を見続けて一日が終了。

うん、わりと一般的な気がするけど文字に起こすとやっぱりアカン。


iphoneの水没で強制的にスマホ断ちをさせられ、「さすがにスマホ見すぎだったのでは?」と問題意識を抱いた状態で週明けを迎えています。

 

スマホ断ち2日間でわかったこと

  • ニコ動をエンドレスで流すのは、「見たいものがない」というストレスにさらされるリスクがある。
  • Twitter断ちでいちばん恐怖を感じたのは「話題に乗り遅れるかも」だった。テレビ・ワイドショー依存と変わらん
  • 朝夜のストレッチ、入浴はニコ動無いほうがリラックスできる。当たり前だけど
  • なんだかんだ娯楽なしでひとりで食事をするのはふつうに辛い
  • ルーティン的生活を送る分にはスマホがなくても困らない。
  • スマホが無いほうが朝の身支度や晩の家事ははかどる。常に両手が空くのと、感覚を集中できるため
  • LINEは神ツール。とくに同居している人間や頻繁に会う人間との連絡手段としてはもう電子メールには戻れない。遠隔で時間を選ばない冷蔵庫のメモ書き最高

 

ざっとこれくらいのことが身に沁みました。
ニコ動依存が「見ないことがストレスだから見るけれど見たいものがない」みたいな危険レベルになっていたことがわかっちゃったのが個人的に一番つらかったです。
二番目の「話題に乗り遅れたくないからTwitter見る」もつらかったけど。気づかないもんですね。


この惨状を受けて、スマホを無事取り戻した私はいくつかルールと、検討事項を作りました。

1.家事、ストレッチ、身支度中は音声系アプリ以外使用禁止

手元を見たり、体の感覚に集中するべきときは一番集中力をそぐ視覚情報を入れるのをやめることにしました。
音楽とかラジオを聴く分にはいいかなと思っています。炊事中とか寂しいし。
ストレッチについてはいまのところ無音が気持ちいいので、このまま無音で行きそうな気がする

 

2.スマホカバーをつけない(グリップ力を補うものは可)

これまではブック型のカバーを使っていたのですが(ヒロ様イメージので気に入っていたのですが)、ブック型カバーは厚みとグリップ力があるのでどこにでも立てかけて置けてしまうという特徴があります。ふつうに考えればメリットなのですが、洗面所のタオルかけやらトイレのペーパーホルダーやらどこにでも連れていけてしまうという最悪のデメリットを引き起こしていました。
カバーを外すと、iphoneってつるつるしてるので下手なところには置けません。結果、手に持てる環境以外では使用を諦めるかんじになります。意志の弱い私がスマホ使用時間を減らすには必要な処置です。
ただ、ふつうに使っていても取り落しそうになるので縁部分にゴムがあるようなやつを取り付けようかなーと検討中です。

 

3.入浴時の娯楽をつくる

私は半身浴派なので、湯船に浸かっている時間が結構長いです。ひたすらリラックスしているのが理想でしょうが、20分マッサージに集中し続けるのは精神状態によっては困難。どーしたって何か欲しくなります。
いまのところ、スマホ依存脱出が崩れる要因になりうる可能性が一番高いのがバスタイムです。
スマホで音楽を聴くのもアリですが、スマホを持ち込むこと自体が結局動画を見てしまう引き金になりかねないのでできればそうじゃない方法を取りたい。
キャンドルとかいいかなと思ってます。アイディアあったら教えてください。


4.目覚ましをスマホから切り離す

多くの人にとってそうであるように、私にとってスマホは目覚まし時計の機能も果たしてくれていました。物が少なくなってありがたい限りです。
……が、スマホを目覚ましとして使うということは、停止する際に必ずスマホを触らなければならないということです。朝起きて真っ先に触るものがスマホ

ロック画面に映るLINEその他アプリの通知。ホーム画面に嫌でも目に入る赤い数字。ワンタップで起動できるTwitter。ああそういえば昨日リプを蹴った状態で寝ちゃったっけ……。

みたいなかんじでね。半自動的に何かしらのアプリを開いて使っちゃいますよね。条件反射に近いので寝ぼけた状態で抗うのはかなり困難です。ここでうっかりニコ動を開くとルール1があっという間に崩壊します。
ですので、10年ぶり?くらいに目覚まし時計を導入しようかと検討中です。起きられればいいので音がうるさすぎなければ安いのでいいや。
昔の携帯をアラームにだけ使うという手もあるのですが、充電切れに気づかなくて寝坊する未来しか見えないんですよねえ。

 

 

……とこんなゆるいルールと工夫でスマホ依存脱出を試みているなうです。
現状、Twitterよりニコ動が辛い。すき間までガッチリ暇を埋めてくれたツールが使えないの真剣に辛い。禁煙ってこれくらい大変なんだろうな辛い。

 

供給は正義だ、供給こそは正義だ

小学生のころ、友だちのお母さんの知り合いの娘さんが出演しているという小劇団のミュージカルに連れて行ってもらったことがありました。高校生と大学生が主な構成メンバーで、今思えば技量も高かったわけではない(実際、その一年後には解散公演をしていた)ほんとうにただのアマチュア劇団でした。なのに、私はなんだかドはまりしてしまい、二日間の公演でもう一日見られると知るや自分の母親と友人の母親に頼み込んで楽日も観てしまいました。連日で同じ作品を観たのは、いまのところあれが最初で最後です。

劇団四季ファンだった母に連れられて少なくとも当時は日本最高レベルのミュージカルを何本も観てきていたのに、アマチュア劇団が演じたその作品は私を魅了していました。

 

話の筋としては、中世イギリスを舞台にした貴族の青年とジプシー娘の悲恋物語
ヒロインのジプシーが歌い踊るシーンがとにかく素敵で、観てから二週間くらいは思い返してはうっとりとして、家で真似をしながら歌い続けていました。
(あと、当て馬役の貴族娘のヤンデレ具合がすさまじく好みでした。視界が狭い感じがすごくよく出ていた)

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実は、いまでも歌えます。さすがに全曲は無理ですが、ヒロインのメインテーマと1幕終わりのカルテットは完全に覚えてしまいました。


ミュージカルオタでいちおう中高と吹奏楽をやっていたにもかかわらず、私はあまり音楽を耳だけで覚えるのが得意ではありません。そらで歌えるミュージカルナンバーは山ほどありますが、たいていはサントラを擦り切れるほど聞いているせいです。

あの日に観た作品のサントラを私は持っていません。会場で販売はしていたのですが、なにぶん小学生でしたので買えませんでした。かわりに何度も何度も頭の中で思い返し、何度も自分で歌っていました。十五年以上たっても、忘れられなくなるくらいに。
大学サークルで自分がつくったミュージカルナンバーすらそれなりに忘れているのに、二度観て聴いただけの曲をこれほど覚えているのは我ながらおかしな気分です。


話はそれますが、私は物心ついたころから創作・表現活動にささやかながらかかわりつづけてきました。小学生になってからエレクトーン、のちにピアノを習い始め、小学校のクラブ活動でマーチングバンドをやり、中学高校と吹奏楽部で演奏して、大学ではミュージカルをつくり、社会人になって合唱をやり、そしていまは同人小説書きとTRPGプレーヤーをしています。(ちょっと触れただけのジャンルを含めればもっといろいろあります)

楽しいこともたくさんありましたが、私が、とくに十代のころを思い返すと不幸だったのは、自分が認められる技量レベルをあまりにも高く置きすぎていたことでした。白状すれば、演奏会や発表会を「おもしろくない」と思いながらこなしていたのです。


おもしろくない、というのは自分にとってではありません(その側面もありましたが)。お客さんにとって、です。この程度のレベルの演奏はつまらないに違いない、家族や友人に義理で聴かせるのも申し訳ないくらいだ……。それが本音でした。だから、高校になってからは家族を演奏会に招待したことがありません。

だったらもっと努力すればよかったじゃないか、というのは正論ですが、そういう問題でもありませんでした。だって演奏は楽しかったんです。たとえさほど上手くなくても。自己満足のレベルで充足していたのでそれ以上頑張る理由はなく、けれどそこに他者を巻き込むのにはためらいがありました。発表会というものがなければ、私はもっと音楽や芝居をつくることを楽しめたかもしれない、という矛盾めいた気持ちがずっとあります。

受け手のいない表現活動でも表現活動足りえるのだろうか。もし成立するのなら、私は心からそれをやりたい。そう感じてきました。いま私が一番やりたいことは『人に見せない前提の舞踊』です。ただ自分の体を音楽に乗せて動かす、自分と対話するためだけのダンスが存在するならやりたい。鏡のないスタジオが欲しい。一時期はひとりカラオケがその飢えを埋めてくれていましたが、だいぶ前から足りなくなってしまいました。

 

この矛盾をどう扱うかの答えはいまだに出ていないのですが、冒頭に挙げた小劇団のミュージカルについて思い出したことでひとつ、救われたことがあります。

それは、自分が「こんなのつまらない、人に提供するのは申し訳ない」と思っていても、なんかよくわからない理由で好んでくれる人や影響を受ける人がいる可能性はある、ということです。もちろん例の小劇団は真剣におもしろいものを提供しようとしていたと思いますが、まさか十五年たってもあの作品を好きでいる人がいるのはきっと想定外でしょう。

たぶん、世の中にはこういうことがある。私がいままで死んだ目で提供してしまった作品で、なぜか勝手に救われちゃった人がいないとも限らない。受け手がどんなふうに感じるかは、コントロールできない。いい意味でも、悪い意味でも。

それならば、私がこれまで勝手に感じてきた自責の念であるとか、恥ずかしい気持ちなんかは、そろそろ水に流してもいいのかもしれないと思えてきたのです。

もちろん自分が胸を張って提供できるのが(とくにアマチュアなら)一番ですし、そういう割合が自分ではどんどん増えているのは喜ばしいことです。嫌々作らなくちゃいけないときはあるし、やる気満々だったのがしぼんでしまうこともあるし、小手先でやっちゃったなーと自己嫌悪することもありますが……やっぱり供給は正義なのだと思います。人目に触れれば、どこかで何かが起きるかもしれないから。

 

素晴らしい作品を見せてくださった劇団の皆さんにいまこそお礼を言いたくてたまらないのに、劇団名も作品名も忘れてしまったこのポンコツ脳細胞を恨む(たしか作品名は「ジプシー」だった気がするのですが、15年前なのでホームページもたぶん存在してないか残ってないし、そもそもブロードウェイミュージカルに同名のって名作があるから検索に引っかからない)。なので、あの劇団の関係者が目にとめてくれることを願って、ヒロインのメインテーマの歌詞を掲載してこの記事を終えたいと思います。ボトルメールみたいなものです。
関係者の方、もし見たらコメントとかDMとかくださると嬉しいです。

 

棕櫚の木陰に身をうずめて
あの人の声を聞いた
もう私の耳に届くことはないけれど
思い出はいつの日もあざやかに

逢える日は来ないけれど
その希望なしには生きられない
私は歌うわ 美しき日々
もう戻らない日々よ
戻らない人よ

 

お風呂瞑想と、痛む体に通す筋(スジ)について

この一か月くらい、お風呂瞑想をやっています。

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参考にした元ツイートが見つからないのですが、だいたいこんな内容でした。
かわいいイラストで描いてありました。

①今日もいちにちおつかれさまー!と自分に声をかけながら湯船に入る
②体の各部位(内臓や感覚器官も含む)に、感謝する「足さん、今日もたくさん歩いてくれてありがとう」等
③全身に声をかけたら、全身のすべての細胞にも感謝をする
④のぼせない程度に、リラックスして湯船につかる

全身にやるといい感じに力が抜けて、めっちゃリフレッシュできるのでおすすめです。

 

私の場合は声には出さずに(声出すと集中が切れるから)こんなことを頭の中で言います。
「足の筋肉、神経、すべての細胞。お疲れ様でした(ありがとうございました)」
筋肉と神経と細胞をわけてるのは、そのほうが力がうまいこと抜けてくれるからです。個人的な感覚です。
機能に関する言及を省いているのは、体の各部位の仕事がちゃんと理解できていないからです。たとえば足は歩く以外にも毎日ものすごく仕事をしているのに、歩いたことだけ感謝するってのはなんか変かなと。主婦(主夫)に対して炊事だけを感謝するみたいなアンバランスさを感じる。なので、してくれていることすべてに感謝するという意図で省いてます。明らかに今日はめっちゃ歩いたな、みたいな日はまた別。
それから、「ありがとうございました」ではなく「お疲れ様でした」と言う日がとても多いです。だってさー、自分に置き換えてみたら疲れてるときは感謝されるよりも先に「おつかれさま」って言ってほしいもん。疲れてることをわかってほしい。めちゃめちゃしんどいときに「ありがとう」だけ言われると何お前だけ幸せになってんだよと思う。……という理由で、お疲れ様のほうがしっくりくる日が多いです。なんとなく今日はありがとうだな、って日もあります。


これを応用すると、お風呂に入ってない時でも凝り固まった体がほぐせるようになります。
たとえば私はしょっちゅう肩こりが痛くなるのですが、痛いあたりに意識を向けて「お疲れ様、ごめんな」と声をかけると一発で力が抜けて痛みが和らぎます。他に痛いところがある場合も、同様です。


ちょっと前まではストレッチとか薬とかで痛みや不快感を軽減しようとしていたのですが、考えてみると不定愁訴系の痛みって何かしらのストレスを引き受けてくれてるから痛いんですよね。私たちが無茶したりミスってるのの尻拭いで無理をしてくれてるわけで。「お疲れ様、ごめんなさい」とその部位へ真っ先に声をかけるのが筋ってものだよなあと思ってます。
仕事背負いすぎて体を壊した社員には「お疲れ、ごめんな、休んでくれ」っていうのが筋じゃないですか。社会がそうしてくれないとしても、自分で自分の体には筋を通してやりたいと思います。